『天晴!な日本人』 第80回 「忠義に殉じた聖将、乃木希典のストイシズム」 (5)
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<本文>
<日露戦争での乃木大将>
1902(明治35)年11月、九州で陸軍大演習があり、明治天皇も行幸となりました。この時、休職中の希典も随行しています。お召列車が田原坂駅を通過する頃、希典は痛恨の軍旗喪失事件に思いを馳せますが、その夜、宿舎に明治天皇の側近の藤波言忠が訪ねてきました。明治天皇が、乃木に与えよと、御製を持たせたのです。藤波は合わせて、明治天皇が度々、乃木のことを口にするとも伝えています。
「もののふのせめたたかひし田原坂
まつも老木となりにけるかな」
希典は、その御製を読み、明治天皇と心が通じ合っているような衝撃を受けたのでした。この世で明治天皇だけは、あの時から抱えた鬱屈した思いを知っていてくれているのだという熱い思いでした。
そうして、乃木を愚将とした端緒となる日露戦争が始まります。希典の出征は1904(明治37)年5月27日です。第三軍司令官としての出陣でした。
出発時、先に出征していた長男の勝典中尉の戦死の報が届きます。希典は勝典に功五級の報あり、大満足と日記に記しました。静子には予め、父子3人、「父子三典の同葬をなすべし」と命じてあります。
静子には「カツスケノメイヨノシヲヨロコベ」と電報を打っていました。次男の保典少尉も従軍していますが、周囲の高官らが、安全な部署に配属しようとするのを制止し、最前線への配属を指示しています。
出征時、静子は、三典に資生堂の香水を持たせましたが、希典のは7円、息子たちへは8円の香水でした。昔の武士が戦陣に臨むにあたり、兜や鎧などに香を焚き染めた故事、嗜みに由来します。
6月6日、希典は大将に昇進しました。この日、児玉も同時に大将となっています。この日露戦争での第一軍から第四軍までの司令官たちは、現在とは比較にもならぬほどの評価を受けてもいい大将たちでした。
英米で日本の外債を売るため、緒戦は万が一にも落とせないというので、薩摩出身の歴戦の雄、猛将の黒木為楨大将が第一軍としてロシア軍を撃破、イギリスの『ロンドン・タイムス』紙上で絶賛されました。後にアメリカに渡航した折りには、熱狂的な歓迎を受けた人です。
その他に、「黒木は一躍英雄となった。メキシコでは彼にあやかろうと、同国一の鉱山を『黒木将軍鉱』と改名した。「カナダでも黒木熱が上がり…」と紹介し、駅や郵便局に黒木の名を付けたといいます(『日露戦争を演出したモリソン』より」。
この勝利によって、200万円しかなかった日本の外債への応募が5000万円にもなったのでした。
続く第二軍の司令官、奥保鞏大将は薩長以外の小倉藩出身で、後に元帥にまでなった傑物でした。西南戦争の折りには頬を銃弾が貫通しましたが、手で押さえて突貫した人です。奥大将は智将でもあり、参謀を不要とする唯一の司令官とも言われています。
第四軍司令官の野津道貫大将は薩摩出身の驍将で、幕末から数々の戦兵に出陣してきた兵でした。後に元帥になっていますが、黒木大将が元帥になれなかったのは長州閥の策謀とも言われるほど優秀な将軍たちで、このような将帥の活躍があったからこそ、日露戦争では勝てたのです。
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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー
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