『天晴!な日本人』 第59回 無垢なる勤王の武人、広瀬武夫 (4)
<忠節の人、武夫>
旅順港の湾の入り口部分は幅が約300メートルありましたが、両端が浅瀬になっていて、軍艦が通ることができるのは中央部分の約90メートル幅の航路しかありません。
そこで、その90メートル部分に5、6隻の老朽船を沈めてしまえば、ロシア艦隊を湾の中に閉じ込めることができるという閉塞作戦を行うことにしたのです。
生還の可能性が低い外道の作戦だとして、東郷司令長官は乗り気ではありませんでしたが、旅順のロシア艦隊の動きを封じるために許可したのです。
作戦を積極的に推進したのは、連合艦隊の先任参謀の有馬良橘中佐(後に大将)でした。
有馬は、自分が言い出したのだから、自分も指揮官の一員として参加すると宣言し、各艦に志願者を募りました。
明治の軍人、参謀の偉さはここにあります。
昭和のあの戦争において、陸海軍の参謀は、陸軍大学、海軍大学を優等の成績で卒業した秀才たちでしたが、現地を調査しようともせず、平面の地図を以ってしか、作戦を立てませんでした。
そのため、現地から無理だという報告が入ると、「精神で突破せよ!」と無茶苦茶な命令を出して、数百万人の戦死者を出し、自分たちは戦後も、のうのうと生き延びていました。
責任を負う心に欠けた連中だったのです。
生還の見込みが薄いことを告げて、志願者を募集したところ、定員67名に対して2000人以上の将兵が志願しています。
自らの血で書いた血書を出す者までいたのです。
幕末から維新後、日本人は、国という観念はあくまで自分の藩、郷土でしたが、三十数年を経て、天皇・皇室を中心に戴いた日本国という観念が浸透し、愛国心という、まともな国の国民なら当然、持っているべき意識を持つに至っていました。
当初、武夫は指揮官の中に入っていませんでしたが、負傷によって欠員が出たため、急遽、参加することになったのです。
もちろん、武夫に不服はないどころか、大歓迎でした。
武夫は、志願者が多数で選抜に苦労したことにつき、
「其の取捨において大いに苦しむ。ああ死を賭して事にあたらんとするの気性は、実に吾が国民にしてはじめて見るべし。痛快の至りに堪えず」
と家に書き送っています。
2月19日、旗艦『三笠』にて決死隊を招き、東郷司令長官は訣別の宴を開いています。
第一回目の閉塞作戦は2月24日に挙行されました。
この時、ペテルブルグで一緒だった八代大佐(昇進して大佐)からは、
「このたびの壮挙に死すれば、仁を求め仁を得るものなり。邦家(日本)の前途は隆盛疑いなし。憂慮を要せず、安心して死すべし」
と激励文を記した大佐の写真を贈られています。
これがいいですね。
憂慮を要せず、安心して死すべし。八代大佐も武人でした。
武夫は沈める予定の『報国丸』(2400トン)に乗り、勇躍、旅順港の湾口に向かいます。
船上では、明治天皇が触れた手袋、八代大佐の写真などを部下たちに見せて、士気を鼓吹していました。
訣別の宴では、
「丹心報国 一死何ぞ辞せん 船と骨を埋めん 旅順のほとり」
と詩を披露しています。
武夫は船中で、
「この度の任務は、武人としては、この上もない名誉の任務である」
「かかる重大な任務の遂行を命ぜられた我々は、そもそも何たる幸せであろう。武士の面目まことにこの上もない」
「自分は平素、陛下の御稜威によって何事も成し遂げらるるもの、また、この手袋には霊が入っていて、常に自分のやることを照覧ましましてござるということを確信している」
と訓示しています。
御稜威とは、稜威の尊敬語で、勢いの盛んなこと、厳かで尊いこと、よって天皇の御威光のことを示しています。日本人なら知っておきたい言葉です。
他にも、
「自分は人の見て、もって困難とするところ、または危険とするところには、何時でも挺身これにあたり、もって自分の気力を養い、胆力を練ることにしている」
「ところで今度という今度は、胆力を試すには何よりの好機会である。皆が平素どこまで修養を積んでいるか、あるいは胆力は、どこまですわっているかを試す絶好の機会であるのだ」
と戒めていました。
そして、ロシア艦が追って来たら、逆にこちらから寄っていき、艦に乗り込んで敵をふん縛るのだ、と語っているのです。
これらの言葉、武士道、陽明学を志す人は、何度も読み、その精神を深く銘記して実践して下さい!
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