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『天晴!な日本人』 第89回 「不屈の精神を持った無私無欲の仁人、田中正造(しょうぞう)」(1)

<正造の生い立ち、人間形成>

世に社会問題と闘った人は多しといえども、田中正造(一八四一年~一九一三年)のように富、地位、名誉、家族の一切を投げ捨て、全人生、全生涯をかけて闘った人はいないでしょう。
その正造が闘ったのは、栃木県北西部にあった足尾あしお銅山の「足尾鉱毒こうどく問題」でした。ただし、厳密に言うならば、足尾銅山の公害を看過した国家であり、社会の思潮と闘ったとも言えます。
一八九〇(明治二三)年七月の第一回衆議院議員選挙に当選し、翌年一二月に開かれた第二議会で初めて足尾鉱毒問題を訴えてから七三歳で没する一九一三(大正二)年九月四日まで足かせ二四年にも渡る、長く苛酷な闘いでした。

田中正造は一八四一(天保一二)年一一月三日、太陽暦では一二月五日に、下野しもつけ安蘇あそ小中こなか村(現在の栃木県佐野さの市小中町)にて、父、富蔵とみぞう、母、サキの子として生まれました。幼名は兼三郎かねさぶろうで、家は代々の農家であり、祖父の代から名主なぬしを務める家柄でした。
名主(関西では庄屋)とは、町村内の有力者の中でも、行政を任される代表者であり、一般農民より高い階層にいました。村からの年貢ねんぐ(現代の税)を納入する一方で、村民の統制と保護、他村との交渉、領主への請願など、村民の代表という機能を持っています。
父の富蔵が、割元わりもとに昇進したのを機に、一八五七(安政四)年、正造は一七歳で名主になりました。割元とは、領主との間に立って、各村の名主たちを束ねる役でした。

正造が生まれた小中村は石高一四三八石余り(一石は一八〇リットル)、戸数は一六〇戸ほどで、関東の多くの農村の例にれず、相給あいきゅうの村でした。相給とは複数の大名、旗本はたもとによって一つの村が分割統治されている村のことです。
旗本は五〇〇石以上一万石未満の将軍直属の武士であり、将軍と「お目見得めみえ」できる階層でした。その下で、「お目見得」できないのが御家人ごけにんです。小中村は旗本高家こうけ六角雄次郎ろっかくゆうじろうが一〇一二石余り、一二〇戸を支配し、旗本の佐野欽六郎が四〇九石余り、四〇戸を、残りを御朱印寺の浄蓮寺じょうれんじが支配していました。
高家とは室町時代以降、朝廷からの使節、勅使、公卿くぎょうの接待、伊勢・日光への代参、儀式・典礼を管掌する二六家しかない名門です。
六角家は小中村の他に七か村を統治していました。相給の村は、領主が直接、各村を統治することができなかったので、自治的傾向が強く、領主は村の有力者を登用して支配の一端を担わせていたのです。
富蔵は六角家筆頭用人ようにん坂田伴右衛門さかたばんえもんと協力して、六角家の財政再建に尽力、五〇〇〇両の蓄財に成功しています。その功績で割元に指名されたのでした。

<幼少期から青年期の正造>

幼い時の正造の性格を示すエピソードを、いくつか紹介しましょう。
五歳の時に人形の絵を描いて、使用人に見せたところ、「あまり、うまくありませんね」と笑われたことがありました。正造は、くやしくて、「では、おまえはうまく描けるのか、すぐにやれ!」と命じ、謝り続ける使用人を許しませんでした。
母のサキが、「許してあげなさい」となだめても聞きいれず、あまりの強情さに、サキに雨降る夜の戸外に追い出されています。恐ろしくて泣き叫んでも一刻、二時間も許してもらえず、このことが正造の弱者への優しさを養う契機となったと、後年、回想していました。

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