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『天晴!な日本人』第35回 小さな巨人、徹底した日本の国益至上主義の人、小村寿太郎(2)

<本文の前のお知らせ>

緊急で、レビューは7月初めになりますが、『安倍晋三元総理追悼論』(高木書房)を是非、読んで下さい。


安倍晋三元総理追悼論
深田匠
高木書房

現在までの最高の書であり、これ以上の内容の書は、たぶん出ません。
著者の情熱と誠実さと公正さも卓越しています。
一家に一冊、友人・知人にも配って下さい!! 


<本文ここから>

小村はアルバイトとして、さまざまな英語の文献・書を翻訳しましたが、この広範な知識が役に立つことになります。どんな境遇であろうと本人次第なのです!

<小村の転機>

小村が出世する機縁きえんとなったのは、この知識でした。機縁とは、もともと仏教用語で、末長く続く事の起こるきっかけという意味です。
同僚のイギリス赴任の送別会の時、イギリス繊維産業の話題となり、小村は原綿の生産額輸出入の状態、綿花の種類まで詳述し、居並ぶ人々を驚かせましたが、その関係の法書を翻訳していたからでした。

この時、「カミソリ陸奥むつ」と異名を取る、陸奥宗光むねみつ外相が同席していたので、カミソリの目に留まったのです。努力する人には、チャンスが訪れる、でした。
陸奥は幕末から維新にかけて政治の重要な職をになった異能の人、英才です。この人の外交も切れ味鋭い外交でした。以降、小村は、カミソリの厳しい要求水準をクリアし、頭角を現していきます。

陸奥は、1884(弘化こうか元)年、紀州藩で生まれました。小村より11歳年上です。幕末に坂本龍馬りょうまの弟分として海援かいえん隊で活躍します。龍馬はたくさんの海援隊メンバーの中で、どんな時でも自立してやっていけるのは僕と陸奥だけ、という趣旨の発言をしたほど、優秀な青年でした。

西南戦争は、西郷に呼応して挙兵する計画に参加し、約四年半を監獄ですごしています。と言っても、かなり自由な特別扱いで、読書、執筆、面会も自由でした。獄中において『左氏辞令一班さしじれいいっぱん』など書いています。釈放後、伊藤博文ひろぶみに見出され、イギリス、オーストリアで二年半学び、帰国後は駐米公使、農商相として政界復帰しています。

陸奥が育てた政治家は、原敬はらたかし星亨ほしとおると、猛者もさがいました。1892(明治25)年8月に成立した第二次伊藤内閣で念頭の外相となり、大きな功績を残しています。

陸奥と小村は人柄も思想も正反対でした。陸奥は議会民主主義の理解者で、実現しようとした希少な人であり、欧化主義、多弁、モダンで自由な人です。
小村は国粋主義、官僚からなる超党派が国益を守るという思いを持つ人、無口、禁欲的、武士的な人でした。
にもかかわらず、陸奥が小村を重用したのは、能力の高さ、剛毅さ、筋の通った性分と、「日本が第一」に徹底していたからです。
日頃は寡黙かもくであるものの、必要な時は雄弁であり、伊藤のような元老、政界のボスを相手にしても堂々と主張します。

小村は政党が嫌いでした。1898(明治31)年に日本初の政党内閣である隈板わいはん内閣が誕生しました。その時、外務次官だった小村に進歩党への入党の勧誘があったのですが、夏だったので「暑いから入湯にゅうとうなどぴらだ」と拒否しています。
その時、

「日本のいわゆる政党なるものは、私利私欲のために集まった徒党であり、主義も理想もない。利益のために節操せっそうを売り、権威に近づかんとして党を犠牲にすることさえかえりみぬありさまである。私は私自身のために次官の地位を守る気はない。ただ私は国家の外交を、かかる党派に任せるのは危険と信ずるゆえに、この地位を去らないのだ」

と語っていますが、今の野党、特に立民、れいわ新撰組に聞かせてやりたい言葉です。

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