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『天晴!な日本人』 第67回 まさに名は表す、山のような人徳の名将、大山巌元帥(5)


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<お知らせ>

年末年始のため、12月21日 09:40以降のコメントへの返信は1月11日アップになります。

<本文>

<戦地での大山の慈愛と徳望>

戦地での大山は、この人らしく、慈愛と徳望に満ちた生活を送っています。
現地では銃砲弾薬の他に、食糧も乏しく、大山のコック係の風間かざまが食糧調達に難儀していました。
それを知った大山は、自分が粗食に慣れていることを告げ、風間がやっと集めてきた粗末なひえあわかゆを、うまいと言って食べています。
風間は大山に対する忠誠心を確固たるものにしました。

司令部では、緊張続きの若い参謀将校らをリラックスさせるため、いつも冗談を言ったり、若かりし頃の失敗談や面白いエピソードを披露したり、となごやかなムードにしています。
卵を売りに来た中国人少年にはビスケットを与え、可愛がっていましたが、少年は何も言わないのに大山の部屋の掃除や水汲みをしに来るようになり、大山は少しずつ日本語を教えたこともありました。
その少年、後に官吏かんり(公務員)になっていますが、大山からもらった日本語の手本をずっと持っていたそうです。

司令部には、袁世凱えんせいがいの軍事秘書長の段芝貴だんしきも訪問しています。
段は大山に、これだけの大軍を円滑に指揮するコツを尋ねましたが、大山は、自分は何も知らず、周りがよくやってくれただけと答えました。
実際は違います。大山は細部に至るまで、よく知っていたのに、部下に任すとなれば、口出しすることを我慢していたのです。
これは大変に自律心、忍耐のいることでした。大山の人徳の一端いったんうかがえます。

1905(明治38)年2月20日、奉天の大決戦を前に、大山は各軍司令官を集めて訓示をしました。
「この奉天の勝者こそが、この戦争の覇者になる」という内容でした。
ロシア軍37万人、日本軍25万人の戦いです。それまでの歴史で最大の戦いでした!日本が持っている砲弾は、わずかに13万発です。
ロシア軍の兵力の三分の一強という少なさでした。
両軍の火砲かほう(大砲など)は、ロシア2000門に対し、日本は990門でした。ただし、砲弾の数の少なさは致命的でしたが。
この会戦前に、急遽、鴨緑江おうりょっこう軍が編制され、川村景明かげあき大将が司令官に任命されています。この人も古兵ふるつわもので、豪放な将軍でした。

3月8日、奉天会戦は始まりました。
ロシア軍、本来は優位にあるはずなのに、慎重過ぎたクロパトキンは、旅順での凄絶な戦いをした乃木大将の第三軍を恐れて、しなくてもいい退却をして、日本軍の勝利をアシストしています。
退却は3月9日、翌日の10日、奉天は陥落し、この日が「陸軍記念日」となったのでした。
この後、海軍が5月27日にバルチック艦隊を完膚かんぷなきまでに破り、日本は勝利を得ました。5月27日は「海軍記念日」になっています。
9月5日に「ポーツマス講和条約」が結ばれ、9月14日、大山は全軍に停戦を命じ、12月には日本に凱旋がいせん帰国しました。

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