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『天晴!な日本人』第24回 始末に困る無私無欲の猛者 山岡鉄舟 (3)

無血開城の内幕には、イギリス公使のパークスの強硬な助言などもありましたが、どうあれ、江戸が火の海にならずに済みました。
鉄舟は後に、徳川永続の功で、16代目の当主の徳川家達いえさとから武蔵正宗むさしまさむねの名刀を贈られていますが、この勲功くんこうは私のものにすべきではないとして、岩倉具視ともみに進呈しています。
こうした欲のなさ、功をわたくししないところも、現代の日本人には亀鑑きかんとなるでしょう。


<20代の頃の鉄舟>

21歳で幕府の講武所の剣術世話役になった鉄舟は、日々、稽古と試合に明け暮れていましたが、1863(文久ぶんきゅう3)年に世に出るきっかけをつかんでいます。
この年、京都での尊王攘夷を標榜する志士らの暗躍を抑えるため、幕府は浪人の中から取り締りのための「浪士ろうし隊」の募集をしました。
皆さんが、よく知っているのでは、これを契機として、後に新選組となる、近藤いさみ、土方歳三としぞうらも応じた出来事です。
鉄舟は剣の腕もあり、この浪士隊の取締役に任命されました。
そこで同じ千葉周作しゅうさく門下生の清河八郎きよかわはちろうと「虎尾こびの会」を作り、さまざまな浪士、志士らと知り合うのです。
この中に前出の益満ますみつもいたのでした。ただ、残念ことに、京都においての管理不行き届きで、五年の閉門となり、不遇の時を過ごすことになったのです。
この間、鉄舟は、めげることなく、ひたすら剣と禅、そして、もう一つ、名を残したしょの道に精進しています。鉄舟の書は、11歳の時に始まりました。
高山から江戸に戻った後は、東晋とうしんの「書聖」と称された、王羲之おうぎしを手本にして独習していました。
その後は、弘法大師こうぼうだいし(空海)の筆跡に心酔し、暇を作っては書きまくっていたのです。
特に流派はなく、「鉄舟流」でしたが、その書く量が並ではありませんでした。
鉄舟は書について、写す、字がどうこうではなく、心を練ること、心とは何かを究明し、どうしたら、自分の心が完璧に写し出されるかを求めることだと述べています。
こう聞くと、やはり、剣、禅、書、共に精神、心、魂の問題だとわかります。明治以降、しばしば揮毫を頼まれていましたが、どんなに少なくても日に200枚、普通なら500~600枚は書きました。
1880(明治13)年の一年では18万1000枚余も書いています。ある人が、その数について驚くと、まだ3500万人に一枚ずつは行き渡りません、と答えたそうです。3500万人は、当時の日本の人口でした。
何の道でも、志を立てたなら我を忘れて、そのことに忠実に取り組む、ただ、これだけで、「志を持ち続けるためにどうすればいいですか?」など、愚かな問いでしかありません。本物の志ならば何があっても続くのですから。
1886(明治19)年頃から、「大蔵経だいぞうきょう」の筆写を発願し、毎日、午前2時迄、書き続けています。
亡くなる前日にも、重態の体で筆写していますが、決めたら何があろうとつらぬく、状況に左右されない、忙しいとか言い訳しないところ、是非、手本にして欲しいです。
結局、126巻を筆写しています。鉄舟の書は雄勁ゆうけいとされ、温かさもある、と評されています。
鉄舟は、ある時、書家にどういう書法で書くかと問われ、「無法で書く」と答えました。
にとられている相手に、物指しに頼らねば何一つ仕事ができない大工と、そんな物は何もなくても立派な仕事ができる大工、どちらがすぐれているか、と語ったのです。
法にとらわれず、筆の中に己を没入し、一体となる境地で、筆の性に従って無心に書きさえすれば、おのずから法が現れるとも語っています。
没入、無心、いずれも己をむなしくする、捨てることに通じています。
余計なことは考えず、計算せず、ただ一心に没入する、取り組むことです。
書となれば西郷も高名です。宋の忠臣、至誠の士の岳飛がくひの書を学び、楷書は陽明学の祖の王陽明を学んでいました。
西郷の細字はたくみであり、風神高妙と評されています。

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