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『天晴!な日本人』 第58回 無垢なる勤王の武人、広瀬武夫 (3)

<ロシアでの広瀬武夫>

武夫はロシアに来た年の12月、武夫は祖母を亡くしています。厳格なれど優しく温かい祖母の死に武夫は眼病になるほど泣きましたが、やがて軍人であるとの自覚から我を取り戻しました。

留守中、1901(明治34)年4月には、父の重武も逝去しています。留学中、武夫はロシア海軍の各地の軍港や、軍事施設も視察して報告書を作っていました。

滞在して2年ほど経つと、ロシア人の知人も増え、先方の家族と共に過ごす機会も多くなっています。誕生日、舞踏会、茶会にも招待されるようになり、武夫の真っ直ぐで明るい性格が人気を集めるようになりました。

武夫は、酒もタバコもやらず、トランプなどのギャンブルもしません。パーティーでは歓談と食べることに専念しています。そうした中で、特に親しく交際する人がいました。ペテルベルク大学の医学教授の、フォン・ペテルセン博士と海軍水路部長、侍従武官のウラジミール・コワレフスキー少将です。少将は子爵ししゃくの家柄でした。

こうして武夫は両方の家に遊びに行くことが多くなり、同時に両家の娘からしたわれることになったのです。

ペテルセン家のマリヤは20歳を1、2歳越えた長身、金髪の、しとやかな女性でした。彼女は知り合って以来、武夫への好意を胸の奥深くに抑え込んでいました。

コワレフスキー家の娘は、アリアズナといって18歳です。マリヤとは反対に、開放的で快活な女性でした。父も兄も海軍の将校だったので、この家には彼女めあての海軍の若い将校が常に出入りしていたのです。

彼らは、アリアズナが、日本の海軍将校に好意を持っていると知り、心中は穏やかではありませんが、女性に疎い武夫は、アリアズナの心の内も分かりませんし、気づくこともなかったのです。

こういう状況もあり、武夫はロシア海軍将校との交際が広がり、中には武夫のことを兄のように慕う若い将校もいたくらいでした。武夫が特に勇名をせたのは柔道です。

ロシア人は古来から体の大きいこと、強いことが善とされる民族であり、コワレフスキー少将が、武夫のことを柔道の達人だと紹介すると、190センチ、2メートルにもなんなんとする将校たちが勝負を挑んできたのです。小さな日本人、なにするものぞ、とバカにしながらでした。

ロシア人は、19世紀初め、ナポレオンの時代に、身長2メートル以上の皇帝の親衛隊を易々と編成できたほど、大男が揃っています。その巨漢を、日本人としては大柄といっても、170センチ足らずの武夫が次々と投げ飛ばすので、「ヒロセは恐ろしい」と有名になりました。強さが無条件に善の国なので、たちまち英雄視され、ニコライ2世の前で披露することにもなったほどです。

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