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『天晴!な日本人』 第49回 神算鬼謀(しんさんきぼう)の奇才、天才参謀の秋山真之(さねゆき)(1)

伊予いよ水軍の末裔まつえい


皆さんは日露戦争での「日本海海戦」のパーフェクト勝利を知っていますか?
ロシアの誇るバルチック艦隊を完膚かんぷなきまでに破った海戦で、世界の四大海戦の一つに数えられるようになった見事な戦いでした。
四大海戦の中でも、これほどの圧勝はないとされた海戦です。

四大海戦とは、紀元前480年にギリシアとペルシャが戦った「サラミスの海戦」、1571年にスペインとトルコの戦った「レパントの海戦」、1805年にイギリスとフランスが戦った「トラファルガーの海戦」、それと「日本海海戦」のことです。

その日本海海戦で、連合艦隊の東郷平八郎司令長官のもと、首席参謀として作戦を立案し、日本の大勝利に結びつけたのが、秋山真之さねゆき中佐(のち中将)でした。前に紹介した秋山好古よしふる陸軍大将の弟です。
真之は「天才参謀」「伝説の名参謀」「日本海軍の至宝しほう」とも称されましたが、今回はその偉才ぶり、生き方を紹介します。

真之は1868(明治元)年3月10日、松山藩藩士の平五郎久敬へいごろうひさたかと母のさだの五男として生まれました。幼名を淳五郎じゅんごろうと言います。
好古のところで述べたように、父親は10石取りの徒歩目付かちめつけでした。松山藩は官軍の敵、幕府側だったので、維新後は新政府への上納金も求められ、財政事情の悪化から、藩士たちの暮らしも窮乏きゅうぼうを極めました。
あまりに貧しいので、真之を寺にやってしまおうと夫婦で話していたところ、9歳上の好古よしふるが、今に自分が働いて金を作るから、家に置いてくれと頼んだので、秋山家で育てることになったのです。
成長して、このいきさつを聞いた真之は、終生、好古に逆らうことはなく、好古の生き方も尊敬していました。

兄の好古は大柄でしたが、真之は小柄で動作も敏捷な子に育っています。
色黒で走らせても速く、界隈かいわいきってのガキ大将、ワルガキで、近所の親たちから、しばしば苦情を持ち込まれたほどです。
12歳の時には子分を動員して花火を作り、勝手に打ち上げて騒動を起こし、警察の世話にもなっています。
あまりのワルガキぶりに、母の貞が、仏壇の前に真之を座らせ、「お母さんもこれで死ぬから、おまえもお死に」と短刀を突きつけてまで迫ったものの、その効果は2日で消えるほどでした。

そんな真之でしたが、兄の好古が陸軍士官学校(陸士りくし)を出て騎兵将校となって、家に仕送りしてくれたので、松山中学に行けることになったのです。
ここは、のちに夏目漱石そうせきが教師として赴任した学校で、『坊っちゃん』の舞台にもなっています。この中学では、正岡子規まさおかしきと真之は同級生で親友となったのでした。

その子規が1883(明治16)年に上京しました。真之は羨ましがりますが、家が貧しいため、どうしようもありません。
そんな時、旧藩士が藩内の秀才の子どもを支援する常磐ときわ会を設立しているのを耳にし、申し込むことにしたのです。
すぐに県庁の学務係に出かけました。係官はなんと父でした。父は自分が常磐会のことを担当している以上、おまえを入れるわけにはいかんと断ります。
父は道義に厳格な人で、私利私欲をいとう人でした。
真之は失望しますが、それを好古が救います。陸軍大学にエリート軍人として入学していた好古が、上京せよと、費用を送ってくれたのです。

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