『天晴!な日本人』 第23回 始末に困る無私無欲の猛者、山岡鉄舟 (2)
<実際に関わることのみ>
鉄舟の禅修行は止むことなく、最後は天竜寺の滴水和尚の下に参禅しました。天竜寺は、臨済宗の寺です。
滴水和尚は実に厳しい人で、室内から和尚の怒声や、鉄舟を打つ痛棒の音を聞いた弟子たちは、和尚を憎んだとあります。
鉄舟自身は、厳しい師のありがたさを初めて知った、もし出逢っていなければ、今日の自分はなかったろうと語っていました。他方、滴水和尚も、鉄舟と接した時は一回ごとに命がけで、自分も大いに力を得た、と語ったと言われています。
鉄舟はどこにいても毎晩、午前2時まで坐禅をしたそうです。その時、普段は出てくるネズミが、ぴたりと出てこなくなるとあります。
鉄舟の手記には、「心胆錬磨之事」というのがありますが、
「一度思を決して事に臨む時は、猛火熱をも、厳氷涼をも、弾雨をも、白刃をも知らざるなり。是れ何事なるぞというに、心既に水火弾刃なきが故なり」
「如何にして胆をして豪ならしむるかと尋ぬるに先ず思を生死の間に潜め、生死は其の揆一なることを知ること肝要なるべし」
と記されていました。
以前、昨年の9月に草士さんからの問いに答えましたが、無欲無私、自己を捨てる、というのは、人生や生命さえ、あっさり捨てられることであり、いくら禅の修行をしても、実際の役には立ちません。
日本刀か拳銃を向けられたら、そこで終わり、平然としていられる人は、ほとんどいないのです。
胆を練る、肚を据えるとは、実際の場数、経験によって鍛えていくしかありません。これは平生の暮らしの中で、そういう場面を自ら作る、逃さないということで、それすら怖がっているような精神では、到底、達せられませんし、武道をやって強くなってからというのも問題外で、いつでも己を捨てられなければ本当の修行、鍛錬にはなりません!
武士の世のように白刃で斬り合うことのない今、そのような場面は、自分で作るしかなく、その勇気すらなければ一生、ただの観念の人、口舌の徒でいるしかないのです。『葉隠』『陽明学』への道は、厳しくて当然です。
さすがに海舟は、そのことにつき、
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無期懲役囚、美達大和のブックレビュー
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