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『天晴!な日本人』第42回 剛毅朴訥(ぼくとつ)、仁(じん)に近しを体現した秋山好古(よしふる)大将(3)

好古よしふるは厳格な人で、真之さねゆきが親戚からもらった白足袋や兵児帯へこおびの着用など許しません。質実剛健、男子とは質素で飾らないもの、としていました。
若いうちは、ろくなことがない、と新聞も読ませず、冬の雪の降る日に、下駄の鼻緒が切れたから、手拭てぬぐいを裂いて直そうとしていた真之に「裸足で行け!」と怒ります。それで真之は外の雪の中に飛び出していくのでした。
真之にとり、この世で最も怖く、最も尊敬していたのが好古だったのです。
この後、真之は大学予備門に子規と共に合格しますが、兄の世話になり、その俸給で通学することに申し訳なさを感じ、別の口実を設けて海軍へと進みます。真之のことは、好古の後にやりますので待ってて下さい。


〈騎兵将校としての覚醒〉

陸大に入った好古は、騎兵将校としての目標を決めます。

「軍人の相手は敵である。敵に勝つ騎兵を作る」

日本の生まれたばかりで弱卒の騎兵を世界レベルまで引き上げるということでした。

また、前年から陸軍はフランス式をやめ、ドイツ式に切り替えます。これは、ドイツ軍が最強、参謀は特に優れているという調査結果からでした。
1870年にプロイセンとフランスの普仏ふふつ戦争があり、7月19日開戦、9月2日、セダンの地でフランスのナポレオン3世(ナポレオンの甥)が捕虜となり、プロイセンは圧勝し、近隣の諸侯国しょこうこくと自治都市を統合してドイツ帝国を創っていたことが、切り換えの大きな理由です。
プロイセンは、モルトケ参謀総長という天才的参謀と鉄道を使った迅速な動員、新式装備で楽勝だったのでした。

陸大では早速、モルトケに要請し、まな弟子のクレメンス・メッケル少佐を派遣してもらっています。1885(明治18)年3月に来日したメッケルは、帝国陸軍の参謀本部顧問となり、陸大教官に就任し、青年将校たちに高等軍事学を教えています。

メッケルについて、面白いエピソードがありました。ボスのモルトケに、日本に行けと言われた際、一日待って下さい、と断り、翌日午後に承諾したのですが、その理由、何だと思いますか?
それは日本で、愛飲していた「モーゼルワイン」が手に入るかどうか、調べていたからでした。日本でも手に入ると知り、ただちに了承したのです。

日本での年俸も約6000円弱と、大将と同じ待遇でした。メッケルは、ヨーロッパの軍人の間では戦術についての書が17冊もある有名な人物で、メッケルが日本に与えた影響には絶大なものがあります。日清・日露の両戦後に勝てたのは、メッケルの教えが大でした。理論ばかりではなく、徹底した実践、実学、実地教育により、戦術を叩き込みます。

このメッケルに、関ヶ原の戦いの布陣図を見せたところ、一瞬で西軍、石田三成側の勝ちと言いましたが、小早川秀秋こばやかわひであきはじめ、諸将の裏切りがなければ、やはり西軍が勝っていたのです。

このメッケルが絶賛した日本の将校に、後に日露戦争の陸軍勝利の立て役者となった児玉源太郎こだまげんたろうがいました。
世界中がロシアの勝利を信じて疑わない中、メッケルは、「日本が勝つ、児玉がいるから」と断言していたのです。

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