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娘を産んだ日のこと


この文章はわたしの第二子出産レポです。結論から言うと、出産で死にかけました。不妊治療で授かったこと以外は特記するような事柄はなくて、妊婦検診は異常なしでした。
これから出産を迎える方には怖い思いをさせてしまうかもしれない内容なので、それでも…という方はお付き合い下さい。怖がらせるつもりはなくて、自分に起きたことを整理するために書きました。

全ての妊婦さんが安全に、安心してお産を迎えられますように。どの妊婦さんも心がひとりぼっちになりませんように。本当に本当に、祈っています。







出産予定日の二日前、息子の着替えを手伝っている最中に破水した。
慌てて産院に連絡し、息子を実家に預けて夫の運転で産院へ向かった。
ちょうど新型コロナウイルスの波と波の狭間だったので(もういつが第何波だったかわからん)、夫の立ち会いを許可してもらえた。

産院に到着した時は「生理痛くらいか~」というレベルの痛みだったのが、やがて10分ごとに本気の陣痛が来るようになり、何時間か陣痛の波に耐えた。
陣痛が来る度に「フォースを信じて……ダークサイドを畏れないで……」と呟いてた。前回の出産は初産だったからか、痛みで軽くパニクってしまったので、反省を生かしてメンタルだけでもジェダイの戦士になって冷静に乗りきろうと思った。様子を見に来た助産師さんがどう思っていたかわからないけど、「上手に呼吸できてる!さすが経産婦さん!」と褒めてくれたので間違いではなかったと思う。

内臓が引きちぎられてるんじゃないかと思うくらいの痛みに達してから二時間ほど経ち、なんやかんや、娘が生まれてきてくれた。
とにかく赤ちゃんが生まれて、ホッとした。めちゃめちゃ痛かったけど、これでお産は一旦おしまい。カンガルーケアをしたいと希望していたので、少しだけ娘を胸においてもらった。ふにゃふにゃしていて頼りないが、生きてる。息子が赤ちゃんの時とそっくりな顔をしている。隣にいる夫も安心したような顔で、「お疲れさま」と言ってくれた。娘を取り上げてくれた産婦人科の先生も助産師さんも笑っている。
よかった、これから四人家族になるんだ。

赤ちゃん担当の助産師さんが娘を連れて行き、もうひとりの助産師さんと産婦人科の先生でわたしの処置が始まった。役目を終えた胎盤を出し、傷ついたおまたを縫うのだと思う。息子を産んだときは、この時間ほとんど痛みがなくスムーズに終わったので油断していたのかもしれない。



なかなか胎盤が出てこなかった。



最初は「いててて」と言う程度だった。
だんだんと、痛みが強くなってきて「痛い痛い痛い痛い」「あーーーーやめてやめて無理無理無理無理ぃぃぃ!」と叫ばずにはいられないくらいの痛みになってきた。
見かねた赤ちゃん担当の助産師さんが隣に来てくれて、「痛いよね、なかなか胎盤が取れんくて、先生が手ぇ入れてくれてるから。がんばって!胎盤をずっと置いておくわけにはいかへんの!」と状況を説明してくれた。
わたしも、何となくそうだろうなとは思っていた。なぜなら今回の妊娠中にKindleでコウノドリを全巻読破してハイリスク分娩に関して若干の知識を有していたから……。
胎盤用手剥離、下屋先生がやってたやつ…産婦さんが「ぎゃー!いたい!」と叫んでいたシーンが甦る。これが我が身に降りかかるとは…。










どれくらいの時間が経ったかわからない。


「痛い」と「もうやめて」を何度も繰り返し叫んでいた。自分の語彙力が無さすぎて伝わらないのが情けないが、とにかくお腹がめちゃめちゃに痛く、ついさっきまでの「内臓引きちぎれてるんちゃうか」と思うくらいの陣痛を圧倒的に上回る痛みでどうにかなりそうだった。
隣を見ると夫が「ちょっと…」と言いながらすぐ分娩室のすぐ隣にあるトイレに入っていった。(なんでやねん今オシッコしてる場合と違うやろ…)と心の中で毒づいたが、後に聞くとこの時既に大量に出血していて夫はその場に居続けることが出来なかったと言っていた。



ハチャメチャな痛みが、終わらない。

陣痛は「赤ちゃんが生まれたら終わる」とゴールがあること、「赤ちゃんも頑張って生まれてこようとしている」という事実が励みになるが、この痛みはいったい全体どうなっていていつ終わるのかわからないから精神的にもダメージが大きかった。
これが拷問なら何でも喋ると思ったし、人生で初めて「死んで楽になりたい」という考えが真剣によぎった。「お願い、殺して」と言いかけたが、それはできなかった。
すぐ隣に、今さっきわたしが産んだばかりの娘がいたからだ。
頑張って命がけでお腹から出てきたばかりの、まだ生まれて数分の子どもに、実の母親の「死んでしまいたい」なんて言葉を聞かせてはダメだと思った。それが僅かに残っていた自意識だったと思う。


そうこうしているうちにだんだんと「痛い」とも言えなくなってきた。それと同時に先生の声色が一段ピリッとしたものに変わり、助産師さんたちもバタバタとし始めた。さっとわたしの首の辺りに触れて「橈骨は触れます」と報告する声が聞こえた。
先生がわたしに「胎盤がなかなか取れなくて、子宮の一部が引っくり返ってる状態。出血が多くて血圧も下がってるから、すぐに近くの大学病院に搬送します。今から救急車が来ます。手術室で全身麻酔をかけてもらって、子宮の引っくり返った部分を治してもらう治療に入ると思う。赤ちゃんはここで預かるから、安心して。」と妊婦検診でよく見た落ち着いた表情で伝えてくれた。
この時に初めて「子宮が引っくり返ってる」と今までに聞いたことない状況説明があって、ことの深刻さがわかるようなわからんような。しかしだんだんと声を出すのも目を開けるのもつらくなってきたので、これはヤバいかもと思ったわたしは、夫に「息子とあかちゃんをお願い、何かあったら子どもたちをお願い」と伝えておいた。夫はなんとも言ったらいいのかわからないような表情で、(おい…しっかりせぇ…)と思っているうちに救急隊が到着し、あれよあれよとわたしは搬送になったのだった。
搬送されるとき、娘と離ればなれになるのが本当に心許なかった。

その後、あっという間に搬送先の病院に到着し(深夜だったのでいつも激混みの国道がかなり空いていたと後で聞いた)、深夜にも関わらずたくさんの医師と看護師が待ち構えてくれていて、わたしはあれよあれよとまな板の上の鯉状態で気づいたら手術室にいた。
ずっと「お腹痛い、痛い、痛いっす…」とうめき続けていて、「おっ、結構喋れるやん」と言う医師の声が聞こえてきたのはよく覚えている。
手術室に入ったなぁと思った途端に眠ってしまったようで、気づいたら手術は終えていてお腹の痛みもほとんど消えていた。
手術は全身麻酔で、人工呼吸器が気管挿管されていたんだけど、麻酔から目覚めて呼吸器を抜管した時に気持ち悪くて嘔吐していたら、頭の上から「はい、一丁上がり!」という麻酔科医の声が聞こえてちょっとびびった。マジもんのまな板の鯉状態なんだな…
そこから数日間の入院を経て、もとの産院へと帰還した。かくして、娘との再開は出産後一週間経過してからだったのだ。

これがわたしと娘の出会いだった。




わたしについた診断名は“子宮内反症”だった。
緊急手術を終えた後、病室に若い女性の先生が来て、教えてくれた。



入院中、何人もの先生や助産師さんにお世話になったけど、どの人も「助かって良かった」と言ってくれた。
「搬送依頼の電話が来て…救急車の中で亡くなってるかもってみんなで話しながら待っとったからね…」と聞いて。スマホで子宮内反症と検索して。退院する時にもらった診療明細を見てどえらい量の輸血をしてもらったことを知って。あかちゃんと再会した時に産院の助産師さんから「生きててよかった」と言われて。後からだんだんと怖くなってきた。わたし死ぬとこやったんかと。

生きるか死ぬかのスレスレを通り過ぎた。いろんな人が「良かったね」「よく頑張ったね」と声をかけて、気遣ってくれた。
ただ正直なところ、わたしは「頑張って自力でサバイブした感」がない。
娘の出産は、一時的にジェダイになりきることで頑張れた。でもその後は、わたしはただ「痛いよぉぉ」と分娩台やストレッチャーの上で泣いて丸まることしかできなかった。
冷静に搬送の段取りを整えてくれた産院の先生。夜中にも関わらず、どこからともなく集まって下さった救急隊員の方々や産婦人科の先生、麻酔科の先生、数えきれないほどの看護師さん助産師さん。輸血を運びに走ってくれた誰か、献血してくれたたくさんの誰かが、わたしを助けてくれた。たくさんの誰かの手の上に乗せてもらって、たくさんの誰かがわたしと娘を再会させてくれた。


娘は今年で3歳になる。
よく笑い、よく歌ってよく踊る子になった。よく晴れた日は「おひさま、ぽかぽかね」と笑い、息子が走り出すと「わたしも!!」と追いかける、この世に悪意や争いがあるだなんて全く知らない目をしている。
この子が初めて聞いた言葉が、母親の「もう殺して」じゃなくて本当に良かった。もしそうだったとしても、娘の良さは変わらないまま成長しただろうとは思うけど。

たくさんの人たちが助けてくれてね、あなたと母ちゃんは一緒に過ごせるんだよ。母ちゃんは、あなたと一緒に過ごせて、あなたの笑顔をいっぱい見れて、あなたにたくさんの笑顔をもらって、世界で一番幸せだよ。
生まれてすぐ産院でお留守番してくれた娘ちゃん、待っててくれてありがとうね。

3歳のお誕生日、おめでとう。


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