選挙はやっぱり分からない

2022年12月25日、クリスマスに宮崎県知事選挙があった。
4期目を目指す現職・河野俊嗣さんと、かつて副知事として河野さんを招いた元職・東国原英夫さんが争うという、全国的にもちょっと注目される県知事選になった。
結局は2万3000票あまりの差をつけて、河野さんが4選目を決めたのだけれど、20時の開票から当確まで3時間くらいかかったから、激戦だったのだろう。

選挙が終わると、新聞も地元テレビもその選挙の総括を行う。河野さんは300以上の団体から推薦を得られたものの「薄氷の組織戦」、そして東国原さんは「猛追したが壁を越えることはできなかった」(宮日新聞)。「宮崎県民は『安定感』を選ぶ」と読売新聞。
地元新聞の宮日は、「組織票の一部が切り崩され、想定外の接戦。安定感はあるが調整型の現職と、投げ出し批判があるとはいえ発信力のある元職とで県民は悩み抜いた」とまとめた。肌感覚としても、その通りだと思う。

いつも不思議に思うのだけど、「組織票」ってなんなんだろう。
日本の選挙では「投票の秘密」が守られ、誰が誰に入れたのか分からないようになっている。おそらくこれがオンライン投票が導入されない理由だろうけど、民主主義の根幹をなす、重要なシステムだ。
誰に入れたか分からないので、表向きには何かの党員であったとしても、党が推薦する候補者に投票しないことが可能になる。
出口調査では支持する党を聞かれ、その党が推薦する候補に投票したかどうかを確認される。この調査で支持する党と投票した候補の食い違いが明らかとなるのだ。

どこかの新聞記事で、組織票が弱まっていることに対し「党員への締め付けが足りない」という選挙関係者の声を読んだ。
自由意志による投票が原則なのに、なんらかの方法で締め付けることにより票を確保しようという意図を隠そうともしない、その感覚にちょっと引いた。
1980年代生まれだからなのか、他人の意志を圧力によって変えさせようとする手法はどうしても受け入れがたい。本来は議論し、説得するのが正当な方法なんじゃないだろうか。圧力は手っ取り早いけど、抑圧され続けた気持ちって、必ずいつか爆発する気がする。

そもそも、何かの団体が特定の候補者を支援すると決めたのは、その候補者が団体に対して有益だと判断したからだろう。
そしてその団体は、団体に所属する人たちに有益だから存在するのだろう。
そうならば団体構成員は、自然とその候補者に投票することになるはずだ。
それが切り崩されているということは、団体の利益と、団体所属者の利益が相反しているということなのではないだろうか。
もしくは、候補者のマニュフェストに決定的な差異がない、とも言えるのかもしれない。団体が推薦した候補者が選ばれなくても、団体所属者個人の利益や生活は脅かされないから、そんなことが起こるのだろう。

社会は複雑化していて、ひとつの争点だけで候補者を選ぶことはできなくなっている。それも票がまとまらない理由だろう。
仮に、自分が農家で子供がいたら、農業政策に力を入れる候補者Aと教育に力を入れる候補者B、どちらを選ぶだろうか。所属する団体はAを推すだろうが、Bに入れたくなる気持ちもあるのではないだろうか。そもそも、候補者のマニュフェストだって、大体あれもこれもの八方美人型欲張りバージョンで、予算や時間の制約は当選してから考える、というものばかりだ。

選挙を真剣に真面目に考えるほど、誰を選べばいいか分からないというのが現実ではないか。
しかし若い有権者が「誰に入れていいか分からないし、政治に詳しくないから選挙には行かない」的な発言をするのは「投票めんどくさい」と言われるよりやっかいな気がする。まるで大人は政治に詳しくて、みんな正しい人に投票していると考えているようだ。そんなわけないだろう。正しい人ってなんなんだよ。
しかし若い世代の投票率は低いと言われるが、本当に若者はそこに住んでいるのだろうか。住民票を移していない若者が相当数いるのではないかなあ。
住所と居住の矛盾も解決しないと、地方の若者の投票率は低くなる一方な気がする。実数も減ってるんだし。

というわけで宮崎県はこれから4年間、少なくとも大事故にはならない県政が約束された。個人的には、改革の名の下に地元のいろんな業界を敵に回してあちこちに火種を作り、4年でさっさと辞めて去られるよりは、ある程度は穏便に、調整型で行政を回してくれるほうがいいかなと思う。
政治の最大の役割は、複雑に絡み合う多数の人間の利害を調整して、なんとか総意にこぎつけることだと思ってるから。


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