純粋絵の歴史

■純粋絵前史

純粋絵が登場した背景には諸説ある。
信ぴょう性のないことなのであくまで参考程度の仮説である。

純粋絵の起源は当時小学生だった作者が、「おいポケ」という作品を書き始め、のちにおいポケという作品から絵柄と思想が独立したと言われている。

おいポケが登場する前、当時の作者は日常的に殴られまくっていたといわれており、
時には生命の危機に晒されていたこともあったと言われている。
そのうえで生きた痕跡を残すために、
当時よく読んでた漫画やアニメを見て、漫画を作ろうと思い、
漫画を記録し始めたのが始まりという逸話がある。

また、金銭的に余裕がないので、
紙とペンさえあれば描ける漫画という趣味を楽しむ方向に転換したという説もある。

創作活動が始まったのは平成19年。
翌平成20年においポケが誕生することとなった。

■初代おいポケ

平成20年秋、おいポケが誕生しました。
当時は二次創作の漫画でした。
三玉知という地名や、三玉知側の一部キャラクターはこの時点で登場しておりました。
当時は使えるお金も限られていたというのもあり、
家にあるコピー紙をセロハンテープでくっつけただけの本を作り、そこにマンガを描いていました。

また、同年冬には、インターネット上の小説投稿サイトで小説版を作りました。
これが最初のインターネット上でのおいポケです。

■自由帳に漫画版描いてた頃

平成23年春、毎月一話描く漫画版を作りました。
一次創作になったのはこのタイミングです。
このころは自由帳ノートに描いてました。
ただし同年夏においポケ小説版が消失しました。

平成24年春、当時好きだったおいポケが
当時のブームであるニコニコ動画のネタを追加して復活しました。
とても楽しく作れました。
全部で50話ほど、ネタも充実していました。
主要キャラクターはここまでで大半が登場しております。

友人(当時動画制作者、のちの絵師)に漫画見せるのは楽しかった。

平成24年頃、当時のイラスト(令和6年ごろに再現したもの)

■おいポケの低迷そして復活

平成25年秋を最後に、ほとんど作品を作れないまま数年経過。
この間、架空地図を描いていたり、
三玉知地理局というサークルが誕生したりしました。

平成28年10月31日、中野地理子ちゃんが当時の同人サークル(三玉知地理局)のイメージキャラとして誕生。
以降、細々と計画が遂行され、ここからおいポケがよみがえってきます。

また、このころはサークルにて動画を作っていたので、
動画関連の話題もあります。
平成29年9月1日にはゲーム機太平に出演。
おいポケ復活に向けての布石を作ります。

平成30年11月11日、おいポケを日常系の動画にして復活させました。
これが7年ぶりにインターネット上に帰ってきた、おいポケの復活記念の日です。


平成28年当時の中野地理子ちゃん。

■おいポケ+、そして純粋絵としての確立。

時代は令和になり、
そろそろ年齢のことを考え後世に残すことを考えないといけないと考え、
令和4年においポケ+として漫画版を復活させました。

このあたりからPixivにも投稿するようになった。

令和6年に「純粋絵」として技法が確立。
おいポケという作品から独立した作画技法として分離した。

ちなみに、この時までに生み出したおいポケキャラクターは同時に著作権を放棄する方針を取り、
純粋絵の例として自由に活用してもらうことにした。


令和4年版の中野地理子ちゃん。

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