映画『たちあがる女』の世評に納得できない

 先日、ある理由で『たちあがる女』というアイスランドの映画を見た。ある理由というか、別に隠す理由も無いので書くが、大学の講義で見たのである。

 で、結論から言うとこれがけっこう面白かった
 主人公のおばちゃんは環境保護を信条とし、工場の電線を破壊しまくるヤバい活動家なのだが、こういう、「活動すること自体が目的になっている活動家」にあまり良い印象が無い私にとって、そういう「ヤバい人」をちゃんと「ヤバい人」として描いてくれている本作には、大変に好感を抱いたのである。
 
 例えば、冒頭で破壊工作を終えた主人公が家に帰ると、自室にはマハトマ・ガンジー指導者とネルソン・マンデラ元大統領のバカでかい肖像が掲げられていて、彼女はその肖像の前で、あろうことかウルトラマン80みたいな軽快な風切り音のSEと共に正拳突きをするのである。これだけでもうヤバいじゃないですか。

 また、当たり前だが警察当局が破壊工作の犯人を捜すようになっても、彼女はお弁当を外で食べる時に地面に敷く銀マットみたいなものを被って体温を遮断したり、羊の死体を頭から被ったりと、なぜかランボーばりの超人的サバイバル能力を発揮して、ボロボロになりながらも、上空の偵察から逃げ続ける。

 さらに極め付けは、彼女が顔バレを防ぐためにマンデラの写真を切り抜いたお面を被ったまま、ロープ付きのボウガンで当局のドローンを捕獲し、それを手に持った石でバキバキに破壊するシーンである。ここまで来たら爆笑するしかない
 この主人公は、確かに誰か他人に直接暴力を振るうことは決して無い。しかしこのシーンは、後述するくだりと関連して、「人に暴力さえ振るわなければ何をしてもいいんですか?」という問いかけになっている。

 そのくだりというのは、主人公が双子の姉とプールに出かけた更衣室での会話である。
 姉は妹に対し、目の前の彼女がその正体とも知らず「活動家のせいで経済活動が止まって物価が上がる」という意味のことを愚痴る。妹は活動家、つまり自分を擁護する形で反論する。
 私はこのやり取りを見て、『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』におけるハサウェイとタクシーの運ちゃんとの会話を思い出した。
 テロリストの大義名分は、その是非にかかわらず、民間人からすれば傍迷惑な他人事でしかないのだ。
 これを踏まえると、やはり先述のマンデラのお面を被ってドローンを破壊するシーンは、どう考えても皮肉としか思えない。彼女が破壊しているのはモノや機械かも知れないが、その裏で間接的に被害を被っている人間は確実に存在しているのである。

 本作を見終わった私は、「あー面白かった」と思いながら、例のごとくネットの評判を調べて愕然とした。そこに書かれていたのは酷評の嵐、ではない、むしろ褒める意見が多かったのだが、問題はその褒める内容である。

『彼女の信念に感動しました!』(意訳)

『強い女性像がカッコ良かったです!』(意訳)

 え……そうなの? そういう映画だったのコレ? 俺がおかしいの?

 もちろん私と同じような観点に基づいた感想もあるにはあったが、上記のように主人公の行動を全面的に称賛する意見が非常に目立ったことに、私は驚かずにはいられなかった。

 だってさぁちょっと待ってくれよ。「全面的にヤバい」は言い過ぎでも、少なくとも「ヤバさ」という側面を描こうという意図は確実にあると思うんスけどねぇ……? どうスかね……?

 それから、そもそも本作を見た講義のテーマが、「映画内における特徴的な音楽の使い方」みたいなことだったのだが、確かに本作における音楽の関わり方は独特なものがあって、具体的には場面にBGMが流れたと思ったら、そのBGMを演奏しているバンド(というか楽隊というか)やコーラス隊が画面内に登場するのである。それも決まって、主人公が破壊工作など何か一人で活動している時に、彼らは主人公と同じ画面に、当たり前のような顔で映り込むのである。

 私はこの演出を、「主人公が自分の世界に没入して周りが見えなくなっている」ことの表現だと思った。

 そして同時に、ということは話が進むにつれてこの幻覚は見えなくなっていくのだとも思った。

 というのは実は、別にあえて書かなかった訳ではなくて書くタイミングが無かっただけなのだが本作には破壊工作と別にもう一つ話の軸があって、それは主人公が(おそらく)荒ぶる活動家と化す前に申請したであろう養子縁組が四年越しに通ってしまい、彼女が思い悩むというもので、本作は彼女が養子をもらうにあたって破壊工作から「足抜け」する話でもあるのだ。       

 ということはじゃあ主人公が活動家から一人の親になる過程で、そういう、狂っていることを示す演出は無くなっていくものと思うじゃん。思うじゃん。

 本作の終盤からラストシーンにかけての展開は以下の通りである。

 ウクライナの孤児院に養子を貰い受けに行った主人公。しかし、道が浸水しており帰りのバスが動かなくなる。やむなくバスから降り、ヒザくらいまで水に浸かりながら歩く、養子を抱っこした主人公ら乗客たち。その最後尾には、例のバンドとコーラス隊が続いていた…

 そう、養子をもらっても幻覚はバリバリに続いているのである。

 私には、このラストシーンが、主人公と養子の将来に待ち受ける不吉な予兆を示しているようにしか思えなかった。百歩譲っても、「良くも悪くもなりうる未来の不確定さ」くらいまでの解釈しかできず(空も曇ってるしね)、やっぱりポジティブ寄りの表現をしているとはどうしても考えられない。

 確かに、「BGMを演奏したり歌ったりしてるはずの人たちが何故か画面上に出現する」という、この演出だけ見ると、本作全体がのどかな雰囲気で包まれているような気がするのは確かである。しかし騙されてはいけない。というか、本作に限っては、額面通りに受け取るものではないと思うのだ。

 …と思っている私の方がでもやっぱり実はおかしい可能性だってもちろんあるのであって、そういう風に見た人によって全く異なる、本人の思想が反映された感想を引き出させるという点で、これは凄い映画なんじゃないでしょうか。


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