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【音楽】玉置浩二の『田園』にハイリゲンシュタットの幻影が視えた夜

『billboard classics 玉置浩二 LEGENDARY SYMPHONIC CONCERT 2024 "Pastorale"』@東京国際フォーラムに参加した。

ベートーヴェン交響曲第6番『田園』第5楽章で幕が開けたコンサートだが、続けて玉置浩二が舞台に登場したときの第一印象は、「髪も髭も白い!」だった。

それだけ月日が流れたということか。ありていに言えば、「お互いに歳をとったな」ということだ苦笑。

しかし、長身の細身にロングコートを纏った姿勢のいい立ち姿はさすがだった。曲間に一言も発せずにコンサートを最後までやり抜いたのは、音に対する自信の現れだろう。声量は少し落ちたかもしれないが、ファルセットの技術は健在だった。

玉置浩二といえば、安全地帯として'80年代に活躍していた頃の化粧をした顔が印象的だ。音楽にはあまり詳しくないが、ビジュアル系バンドの走りだったのだろうか?

当時は、その外見と女子にややおもねるような曲内容から、アイドル寄りのバンドという認識だった。まだ半分タブー視されていた女性用生理用品のCMソングを歌っていたことも、それを後押ししていた。

次にTVで玉置浩二を観たのは、フジテレビのドラマ『コーチ』に主演し、その主題歌『田園』を歌う姿だった。ずいぶんとビジュアルも曲の雰囲気もガラッと変わり、「路線変更をしてきたな」という印象だった。

浅野温子と共演していたドラマの内容はハッキリとは覚えていないが、海辺の鄙びた町で町おこしに作ったサバカレーの缶詰が大量に売れ残ってしまった騒動を描いたドラマだったような気がする(ちょっと端折り過ぎか笑)。肝心の玉置浩二の演技はというと、「うーん。よく覚えていない」が正直なところだ。

サバカレーの缶詰は、ドラマの中ではダメな物の象徴のように描かれていたため、ドラマが終わって10年以上経った頃、近所のスーパーでそれを見かけた時は、「マジか・・・」と思わずつぶやいてしまった。

そんな話はともかくとして、主題歌『田園』は大ヒットした。そして、その頃は知るよしもなかったが、その直前には、あの名曲『メロディー』もリリースされていたのだ。

玉置浩二の音楽を語るときに、『メロディー』『田園』の2曲は欠かせないだろう。ご本人にとっても、とてもとても大きな思い入れを持った大切な曲であると推察する。

それは、『ワインレッドの心』『じれったい』『悲しみにさよなら』の3曲をメドレー編曲でコンパクトにまとめる一方で、『田園』『メロディー』の2曲をアンコールに配置したコンサートの構成からも容易に窺い知ることができるだろう。

そもそも、今回のコンサートの題名は、 "Pastorale"であり、その意味するところは『田園』である。『田園』が、このコンサートの主題なのだ。

そして、この "Pastorale"は、もちろん、2つの『田園』を指し示しており、1つは玉置浩二の『田園』を、もう1つはベートーヴェン交響曲第6番の『田園』を指し示している。

そして、コンサートでは、2つの『田園』が見事に融合していた。ベートーヴェン交響曲第6番『田園』第1楽章で始まった曲は、いつの間にか玉置浩二の『田園』に移り変わっていき、やがて、玉置浩二『田園』の歌声とベートーヴェン交響曲第6番『田園』の主旋律が、互いに追いかけ合うように奏でるハーモニーがとてつもなく素晴らしく出来上がっていた。完成度が高く、傑作と言っても過言ではない。

まさに、この『田園』を聴衆に届けるために、玉置浩二オーケストラの共演がどうしても必要だったのだ。

少し話が逸れてしまうが、ベートーヴェンといえば、中学校の音楽鑑賞の授業で聞いた話を思い出す。

『ハイリゲンシュタットの遺書』の話をご存知だろうか?

天才の誉れ高いベートーヴェンであるが、その生涯は苦悩に満ちたものだったと言われている。20代の後半から難聴を発症し、ついには音楽家の命とも言われる聴覚を完全に失ってしまったのだ。

絶望に打ちひしがれたベートーヴェンは、ウィーンにほど近い農村であるハイリゲンシュタットで遺書を書いたのだ。

本当に死ぬつもりだったかどうかはわからない。しかし、絶望の淵から再び立ち上がったベートーヴェンは作曲活動に再び勤しみ、同日に発表した傑作が、交響曲第5番『運命』交響曲第6番『田園』なのだ。

言うまでもなく、交響曲第5番『運命』は、重厚で叩きつけるような主旋律で、人間が生きていくうえで避けることのできない『運命』を表現した人類の至宝である。

それに対して、交響曲第6番『田園』は、のどかな農村の風景を描いたかのような優しい調べで、全ての『運命』を受け入れて達観した人間の心情を表現した名曲と言われている。

ベートーヴェンの集大成は、全てを超越した歓喜の歌を歌いあげた交響曲第9番であると言われているが、ベートーヴェンを語るときに、最も充実していた時期に発表された交響曲第5番『運命』交響曲第6番『田園』の2曲を欠かすことはできない。

このことは、玉置浩二の音楽を語るときに、『田園』『メロディー』の2曲が欠かせないことと、妙に符合してはいないだろうか?

そう思ったときに、玉置浩二の経歴を追ってみたら、’90年代の安全地帯の活動休止期に、精神を病み故郷の旭川で療養生活を送っていた時期があることを知った。

この時期が、玉置浩二にとってのハイリゲンシュタットだったのだと、確信した。

ベートーヴェンが、絶望の淵から再び立ち上がり、交響曲第5番『運命』交響曲第6番『田園』の名曲を生みだしたように、玉置浩二絶望の淵から立ち上がり、『メロディー』『田園』の名曲を生み出したのだ。

彼は、ベートーヴェン『ハイリゲンシュタットの遺書』の話を知っていたに違いない。だからこそ、彼の『田園』『田園』の名を冠したと思うのだ。

ベートーヴェンの『田園』が、のどかな農村に流れる小川を表現したのに対して、玉置浩二の『田園』は、激しい言葉とリズムで刻まれている。

そして、『生きていくんだ それでいいんだ』と自分に言い聞かせるように歌い上げている。玉置浩二にとっての『田園』は、生きていくための決意表明なのだろう。そして、人々に対する応援歌でもあるのだ。

では、彼は旭川でのハイリゲンシュタット時代に、何に苦悩し、何に死にたいほど悩んでいたのだろうか?

本当のところは、彼にしかわからないが、『メロディー』に、そのヒントがあるような気がしている。

なぜなら、彼の曲がベートーヴェンへのオマージュだとすれば、『メロディー』は、『運命』に相当する曲だからだ。

『メロディー』の歌いだしの『あんなにも好きだった きみがいたこの町に』『きみ』とは誰のことだろうか?

多くの浮名を流した彼のことだから、『別れた彼女』のことかもしれない。

あるいは、何度も入れ替わり(仲違いしてしまったと思い込んだ)『バンドメンバー』のことかもしれない。

それより、『メロディー』って何のことだろう?

もし、『メロディー』『音楽活動』を象徴していたとしたら、『きみ』とは(失ってしまった)『音楽活動』のことかもしれない。

いや、むしろ『きみ』とは、それら全てを指す言葉と解釈した方がしっくりくるかもしれない。

『きみ』という大切な存在を失ってしまった絶望が、玉置浩二にとっての『運命』なのだ。

コンサートのラストで聞いた『メロディー』は秀逸だった。最後には、マイクを置いて、あの広いホールに肉声を響かせていた。

尋常じゃない体験であった。「声量が落ちた」などと冒頭思ってしまった自分を後悔した。

全員総立ちで、いつまでも鳴りやまない拍手の中で、再び登場した彼が歌ったのが、2回目の『田園』であった。指揮者も観客席に向けてタクトを振り、手拍子の嵐の中の感動的なフィナーレであった。

予定にないアンコールのおかわりであったと思うが、
『田園』→『メロディー』で終わるより、
『メロディー』→『田園』で終わってくれたことに、
予定調和を感じた。

こうして、ハイリゲンシュタットの幻影を視ながら、玉置浩二のコンサートは幕を下ろしたわけだが、ここまでの自分の考察は単なる妄想に過ぎないのだろうか?

しかし、本当に、もしかしてもしかしたらの話であるが、交響曲第5番『運命』『メロディー』の美しきハーモニーが、そのうち玉置浩二のコンサートで観られるかもしれない。

そんな妄想が抜けきれないほど素敵な夜であった。

人物:ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
場所:ハイリゲンシュタット
苦悩の対象:難聴
絶望の曲:交響曲第5番『運命』
希望の曲:交響曲第6番『田園』

人物:玉置浩二
場所:旭川
苦悩の対象:失ってしまった『きみ』
絶望の曲:『メロディー』
希望の曲:『田園』


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