太宰治 『魚腹記』から小説技法を学ぶ

○「反復」からみるスワの「死」
四章でスワは鮒になり、滝壺のなかへくるくると吸い込まれていく。私は、スワはそのあと死んでしまったのではないかと考察する。
一章で、学生の死をスワが15歳の時に目撃したことが語られる。二章の「つまりそれまでのスワは~といぶかしがつたりしていたものであった。」と「それがこのごろになって、すこし思案ぶかくなったのである。」の間で学生の死を目撃し、彼女に自意識が芽生えたことが分かる。学生の死によって、スワは物事を深く考えるようになったのだ。
四章の「なにか考へてゐるらしかつた」の「なにか」は学生の死だと推定することができる。「なにか考へてゐるらしかつた」のすぐ後に、「からだをくねらせながらまっすぐに滝壺へむかって行った」とあることから、学生の死のことを思い、スワは滝壺へむかっていったことが分かる。スワは「山に生まれた鬼子」であり、滝壺が危険な場所だとしっかり認識しており、誤って滝壺へむかったとは考えられない。学生が滝壺へ吸い込まれ、死んだことを考えると、スワも滝壺へ吸い込まれるという「反復」の行為から死に至ったと考えるのが妥当ではないだろうか。スワは「たった一人の友達」である学生と、同じように死ぬことができるのだと、確信を持って滝壺へむかったのだ。
「スワが考える」という反復、「滝壺へ吸い込まれる」という反復から「学生の死」から「スワの死」という物語の反復も行われていることが分かる。

○間テクスト性からみるスワの「死」
この『魚腹記』は、上田秋成の『雨月物語』に着想を得て書かれた物語である。『雨月物語』では、「絵描きの僧が鯉になり、琵琶湖をこころゆくまで逍遥するが、なじみの漁夫につかまってしまってなますにされそうになる。しかし、危機一髪の瞬間、目が覚め、無事助かる。」という物語であり、最後には助けられ、「魚」になる=「解放」というイメージが与えられている。
『雨月物語』に影響を受けている『魚腹記』では、鮒になったスワが無事助かったというシーンは描かれていない。しかし、私は『雨月物語』における「救い」や「解放」は、『魚服記』では別の形で提示されているのではないかと考える。スワにとっての「救い」や「解放」は「死」だったのではないか。先述したように、「うれしいな、もう小屋へ帰れないのだ」と言い、自らの意志で滝壺へむかうことを決心したことからそのことが推定できる。

○「滝壺」のイメジャリ―からみるスワの「死」
 『魚腹記』における「滝」は変化というイメジャリーを持っている。スワが、「滝」の見え方が変わったことで自分の内面の変化に気付き、スワが鮒に変化したのも「滝」であることからそれが分かる。
では、「滝壺」はどういうイメジャリーを持っているか?私は「死」というイメジャリーを「滝壺」は持っているように感じる。先述したように学生は「滝壺」へ落ちることで死に、スワも死にむかう。「滝壺」は「死への入口」的な役割を担っているのだ。

○スワを犯したのは誰か?
四章の「うれしいな、もう小屋へ帰れないのだ」の箇所から、「小屋へ帰りたくない」=「父親に会いたくない」=「父親に犯された」と推測できるが、もう一つその根拠として、「台詞の反復」が挙げられる。
 スワの「阿保」という台詞は、それぞれ別の箇所で二回用いられる。最初の「阿保」は、「おめえ、なにしに生きでるば。」と父親に暴言を吐き、口論した時に用いられる。そして、二回目の「阿保」は父親に犯された時に用いられる。スワにとって「阿保」は父親に対する怒りをぶつける時に使う言葉だと推測できる。もし、「阿保」が反復されず、例えばどちらかの「阿保」が「馬鹿」などの言葉だったなら、二回目の「阿保」が誰に向けられたものなのかは分からない。父親に犯されたということを強調するためにここでは「阿保」を反復したのだ。
 四章でスワが滝壺へ吸い込まれることを決意したのは、父親に犯され、生者の世界では味方がいなくなったからではないか。死者の世界にいる学生に頼りを求めたのではないか。父親に犯されたことで、生きることよりも、死ぬことが幸福になってしまったのだろう。

○開かれた終わり、閉じられた終わり
『魚腹記』は結末が一つに決められている閉じられた終わりか、それとも何パターンかの解釈が用意されている開かれた終わりなのか。私は閉じられた終わりなのではと感じた。スワはこれまでに述べたようにやはり死んでしまったとしか考えられない。しかし、生きることよりも死ぬ方が良いと自ら選び取った死なので、ある意味では「ハッピーエンド」といえる。

○四章において語り手が前面に出てきたことの意味
 四章で「小さな鮒であつたのである。ただ口をぱくぱくとやつて鼻さきの疣をうごかしただけのことであったのに」というように、語り手が急に前面に出てくるのはなぜなのか。この文以降、「スワは」という主語で彼女の心情が語られることはない。「なにか考えてゐるらしかつた」と、語り手の視点から憶測で判断したように語られるのだ。
スワが鮒になったからといって、視点が変わる理由にはならない。「鮒になったスワ」という主語でもいいはずである。では、なぜスワの視点ではなく、語り手の視点に切り替える必要があったのか。私は、スワが「鮒」ではなく「大蛇」になったとスワ自身が勘違いしていたのではないかと推測する。
三郎、八郎の話で、八郎はやまべを食べたというだけの「罪」で大蛇になってしまう。「蛇」=「罪」というイメジャリーはアダムとイブの話から自明の事実である。八郎の行動は結果的に「罪」だと烙印を押されたことが分かる。
「めづらしくけふは髪をゆつてみたのである。ぐるぐる巻いた髪の根へ、父親の土産の浪模様がついたたけながをむすんだ。」
スワもまた、父親からのレイプを誘発する「罪」の行動を結果的にしてしまっている。スワ自身、「大蛇」になったのだと思いながら、死んでいった。作者はスワに「罪」があると示唆し、アイロニーをこめて、最後の場面を語ったのではないか。
「人間は知らず知らずのうちに罪を引き寄せてしまう。」作者からそんなメッセージが伝わってくるようだ。そんな罪にまみれた世界から旅立ったスワは、たしかに「解放」され「自由」になれたのかもしれない。

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