推理小説をエンタメにした木々高太郎の功績

推理小説の世界で木々高太郎が担った役割
推理小説の名付け親で、推理小説は文学的・芸術的でなければいけないとした木々。「探偵小説は芸術とは別」とした甲賀三郎や、「謎が論理的に解き明かすことを主眼とした文学であれば探偵小説」とした乱歩と論争も起こした。木々の作品はその言葉通り、人の生活や心情を丁寧に描いた作品が多く、探偵小説(推理小説)という枠を超えて楽しめるものが多い。
木々が出した探偵小説の第1作『網膜脈視症』から、考察していく。この作品では、木々自身の医者の知識を生かした推理で謎を解いていく。この手法は当時の探偵小説としては前例がない作品だった。たしかに、江戸川乱歩の『心理試験』も質問に答える早さなどの精神分析を用いた推理がなされているが、それは探偵でも使う程度の知識で『網膜脈視症』ほどの深い医学的知識は用いられていなかった。子供の真一の記憶が解き明かされることで犯人が分かるという人情的な解決が用意されていて、それも精神分析を用いて導いているので、文学としても楽しめる。探偵小説デビュー作として申し分ない出来といえるし、木々が表現したい探偵小説像も伝わってくる作品だ。

翌年発表された『睡り人形』は伏字がされたほどの刺激的な作品。奥さんを愛していながら強力な睡眠薬を用いた危険な人体実験をしてしまい、遂には奥さんは死んでしまう。死体になった奥さんを愛撫するように触り続けるという描写が印象的で、異常な性癖に伴う犯罪心理が克明に描かれている。奥さんが死んで10年後に看護婦の松子にも同じ薬で睡り状態にしてしまう。
この作品では人間の知的欲求、独占欲の終着点をみせられた気がした。そして、愛と憎悪が表裏一体であることも理解させられた。甘美な雰囲気が魅力的で文学として面白いうえに、告白書による種明かしまでのタネの伏せ方が上手く探偵小説としてのレベルも高い作品といえる。乱歩の『芋虫』に出てくる性癖と似た所があるが、探偵小説という面では『睡り人形』の方が秀逸であると感じた。
『網膜脈視症』のように、深層心理が事件の解決に結びつく作品として『就眠儀式』がある。エディプスコンプレックスによって、客間の時計が聞こえないと眠れない娘が事件の解決に関わるのだが、そのエディプスコンプレックスが父親の性的なことに関してではなく、生命に対するものだと分かるにつれて、謎が解決していくのが、読んでいて爽快感があった。部屋の時計を止めるのは、客間の時計の音を聞くためで、刃物を隠すのは父を守るためで、客間の刀をそのままにしておいたのは父に高輪氏(父を殺そうとしていた人物)を殺して欲しいという願いから、といった神経症者の対立両存性を利用した伏線回収は目を見張るものがある。
『就眠儀式』よりさらに芸術的、社会的な要素を含ませた作品が、直木賞を受賞した『人生の阿呆』である。この作品は、当時の社会状況で生きる青年の苦悩を描いている。自分の意思が弱い青年が左翼にかぶれ、捕まったりしながらも、そこから成長していく。「探偵小説は芸術的であるべき」とした木々にしかできない、社会と探偵小説を密接に結びつけた作品といえる。しかし、若干事件の解決が無機質に感じ、どっちつかずの印象も否めない。この時点では、木々の試みは発展途上に思われる。
その翌年に発表された『柳桜集』では、木々の文学的な魅力が一気に開花した。その中の二つの作品を考察する。
まず、一つ目は鴎外の『舞姫』の意向をくんだ『緑色の目』という作品。日本人の黄色を利用したトリックや、日本人特有の「謙遜」の性格が下宿先のベルリン娘、ベアテが理解してしまったせいで恋が成就しないという、国を跨いでいるからこその恋愛、推理がオチになっている。探偵小説としても、恋愛小説としても楽しめる作品だった。
二つ目は、恋愛より文学を愛してしまった女を描いた『文学少女』という作品。文学という芸術に陶酔し、文学を理解してくれる人が好きだというミヤ。しかし、彼女と結婚が決まった男は表面上の文学の知識しかなく、ミヤにはそれが分かってしまい、一緒にいられなくなってしまう。芸術がしたい、でも生活がある。生活よりも芸術を選んでしまうミヤが、愚かしくもあり、かっこよくも思えた。乱歩はこの作品に対して、「彼の文学執心には、医学者の余技以上のものがある。単なる分析作家ではない。文学心に燃ゆること、探偵小説界、彼の右に出づるものもない程であることが段々分かって来た。」という高い評価を下している。この作品により、乱歩に木々の文学的資質を認めてもらうことはできた。しかし、探偵小説としてどうかという点については言及していなかった所から、探偵小説と文学が全く一緒ということではないとする乱歩の考えも推定できる。
同年に出された『折蘆』は私立探偵の活躍を描いた、生活感、リアリティが溢れる作品だ。私立探偵を開く過程や、東儀の妻の嫉妬の感情なども描いているので、とっつき易い作品だった。推理と社会の結びつきを強めた作品として評価できるが、少し冗長気味なところは気になった。普通の文学としては良いが、探偵小説としては読み応えなく感じるかもしれない。
翌年、出された『永遠の女囚』も不倫の愛情を抑える女性を描いた現代にも通じそうなリアリティのある作品である。当時の社会状況的に結婚を自分で決めることが出来ない苦しさを抱えた桂の犯罪心理は、読んでいて身にしみるものがあった。特に桂が最後に言った「お兄さん、世の中には言ってはならない言葉があるけれども、囚人になると、なんでも言えます。ただ何でも言えるために囚人になった人間も、もう今までに一人か二人は生まれて、そして死んだことがあるのでしょうね」という言葉は、まさに桂が「永遠の女囚」であることが分かり、戦前の女性の心情を捉えた言葉として秀逸に感じた。
(1946年に『推理小説叢書』を刊行し、「推理小説」を提唱し始めた。以後、紹介する作品は推理小説として発行されたものである)
戦後の作品である『新月』は正直、一読するだけではよく理解できなかった。しかし、その後、補足として出された『月蝕』を読むと、ある程度は理解できた。好きな人に死んで欲しいという気持ち、その人とその時の自分の気持ちも残しておきたい、新月のような気持ちのままでいたいと願う気持ちを描いていて、そういう感情を抱いたことがある人にはよく理解できる話だろう。色々な解釈ができるように余白を残した挑戦的な作品といえる。
『わが女学生時代の罪』は、戦後の代表作で、久方ぶりに深層心理学の問題に復帰している。この作品は、社会問題というよりは、個人が抱える問題に深く切り込んでいる。しかし、同性愛に触れているという面では、現代の社会問題に関わる作品ともいえる。精神病患者(本当は違う)りみ子の心理が事件に関わり、そして彼女が隠していた部分が事件の真相になるという、初期の木々らしさが滲み出ていた。ヒロインの深層心理を描いていながら、毒殺トリックという本格推理的な要素も含んでおり、木々の集大成の作品といっていいだろう。
乱歩は、木々が目指す探偵小説(推理小説)像を理解したうえで、木々の作品を文学的、芸術的な部分では認めるが、推理の部分ではそこまで高い評価は与えなかった。甲賀三郎に対して木々が言った「探偵小説として優れていればいるほど、芸術性の高い小説といえる」という論を否定し、それらを分けて考えるべきとした乱歩が一枚上手だったのかもしれない。それでも、木々が作った「推理小説」は探偵小説と社会を近づける重要な橋の役割を果たしたといえる。現在のように、推理小説が多くの人に読まれているのは、木々のおかげだといっても過言ではない。


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