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『日本人ルーツの謎を解く』の事実検証

まえがき

 この記事は、表題の『日本人ルーツの謎を解く』という本を持っている人に向けて、正しい情報を届ける目的で書きました。本の内容に沿って記事は書かれているので、是非とも本を手に取りながら読み進めて行って下さい。
 本文に入る前に、検証対象とした各章の概要を紹介します。また、第一章と第七章については、内容が重複する都合でほとんど省略しています。
 第二章では、まず縄文稲作がほぼ否定されていることを書きました。縄文時代の日韓交流については、著者が実態から乖離した主張をしていました。著者は、縄文人が独自に水田稲作を始めたかのように主張しましたが、水田稲作が朝鮮半島から伝播したのは疑いようがありませんでした。
 第三章では、縄文時代と弥生時代の年代決定に関する部分を省略し、縄文土器が世界最古の土器なのかということについてだけ書きました。
 第四章では、弥生早期が寒冷期に当たり、それに伴う人口圧が渡来の要因になったという仮説によって、著者の主張に反論しました。著者は、縄文人と弥生人の形態的な違いを、在来集団の地域差に求めていましたが、それを支持する証拠はありませんでした。また、著者が自説の根拠にしていた遺跡は事実誤認でした。ATLキャリアの分布については、著者が渡来を否定する為に使った資料の問題点を指摘しました。
 第五章では、著者が主張するような人口推計方法では、縄文時代の正確な人口が求められないことを指摘しました。
 第六章では、著者は鈴木尚氏の変形説を援用して、埴原和郎氏の二重構造モデルを否定しようとしましたが、著者は同氏の変形説を正しく理解していませんでした。また、著者の百万人渡来説批判は、的外れなものでした。
 第八章では、中橋孝博氏の人口推計シュミレーションに対する著者の批判に反論しました。また、著者の弥生土器や渡来人に対する誤った認識を正しました。
 第九章では、日本人のミトコンドリアDNAとY染色体の8~9割が縄文人に由来するという著者の主張に対して、核ゲノムの研究成果を使って反論しました。また、関連する話題として、同著者の『日本の誕生:皇室と日本人のルーツ』にも少し触れて、アイヌ民族への否定的な言説に反論しました。
 第十章では、日本語の故地が朝鮮半島である可能性を提起し、著者が推す崎山理氏の混合言語説に対する疑問点を述べました。また、東日本の縄文人がアイヌ語話者であった可能性を提起しました。
 結論を言うと、この本の内容はほとんどデタラメであり、日本人のルーツを知る上で何ら役に立ちません。そのことを理解してもらう為にも、少々長い内容ですが、最後まで目を通してもらえると幸いです。

凡例
①記事内で「本書」と書いてあれば、それは表題の本を指します。
②記事内で「著者」と書いてあれば、それは表題の本の著者を指します。
③弥生人は「○○弥生人」と書かない限り、渡来系弥生人を指します。

1.第一章 司馬遼太郎・山本七平の縄文・弥生観は失当だった

 第一章は総論的な内容なので、後章に出てくる話は飛ばしています。

1-1.【32頁の検証】

1-1-1:三内丸山遺跡の栽培植物について
 著者は、「……一五〇〇年間続いた青森の三内丸山遺跡では、大麦、粟、稗、豆、キビ、瓢箪、エゴマ、が栽培され(※」と述べています。
 しかし、このうち大麦・粟・キビについては、現在では縄文時代晩期以降になってから出現することが確認されています(小畑 2016)。
※本書32頁

参考文献
小畑弘己『タネをまく縄文人』吉川弘文館,2016

2.第二章 縄文時代から続く日本のコメづくり

 本書が出版された2010年は、本書の主要なテーマのひとつである縄文稲作が、考古学者によって見直され始める時期でした。そうした事情がある為、本書が縄文稲作を極めて肯定的に論じているのは、出版された時期的に仕方がないと言えるでしょう。
 しかし、本書は2020年になっても重版されています。この頃には、後述する「縄文時代晩期後半の突帯文土器出現期」より前に稲作は存在しなかったということが、既に明らかにされていました。その為、本書の縄文稲作に関する記述を、当時は正しいということで済ませるわけにもいきません。

長浜浩明『日本人ルーツの謎を解く』第11刷

2-1.【40-45頁までの検証】

2-1-1:プラントオパールは縄文稲作の証拠になるのか?
 かつて縄文稲作の証拠として、縄文時代の遺跡から稲のプラントオパールが検出された事例が注目されていました。土壌中のプラントオパールは、水と一緒に移動できるので証拠として不利ですが、土器胎土中から検出されたプラントオパールは、土器を焼成する前に混入したものと考えられていました(藤尾 2002)。
 しかし、プラントオパールは非常に微細である為、長い時間が経って劣化した土器胎土の隙間に、後から混入するコンタミネーションの可能性も否定できないそうです(寺前 2017)。このことから、最近ではプラントオパールの存在が、縄文稲作の証拠として扱われなくなっています(設楽 2014)。

2-1-2:風張遺跡の米粒について
 著者が「……から発掘が始まった青森県の風張遺跡からも、三〇〇〇年前の米粒が見つかった(※」と書いている通り、この遺跡から出土した炭化米は、かつて縄文時代後期に遡ると考えられていました。
 しかし、放射性炭素年代測定を行った結果によると、紀元前800年以降のものということが分かりました(設楽 2014)。当時の青森県は縄文時代晩期になりますが、北部九州では既に水田稲作が始まっていたので、交易で入ってきたものでしょう。
※本書43頁

2-1-3:コクゾウムシについて
 コクゾウムシは貯蔵穀物の害虫として知られていますが、ドングリなどの堅果類でも生育することが分かっています。また、縄文時代のコクゾウムシは現生のものより大きいのですが、クリやドングリに寄生すると大きく育つことも分かっています(小畑 2016)。
 その為、縄文時代のコクゾウムシの痕跡では、稲作の存在を証明することができません。

2-1-4:稲籾圧痕土器について
 土器の表面には、種子や籾殻の圧痕が付いている場合があります。それらの圧痕は、粘土が焼成されて硬くなる前でなければ付きませんから、コンタミネーションが疑われるプラントオパールよりも確実性の高い証拠になります。近年では、そうした圧痕にシリコン樹脂を流し込んで精密なレプリカを作り、走査型電子顕微鏡で観察して同定する圧痕レプリカ法が活用されています(寺前 2017)。
 この研究によると、稲籾圧痕土器が確認されるようになるのは、現状だと縄文時代晩期後半の突帯文土器出現期からになるそうです(中沢 2017)。以前は、それより古い稲籾圧痕土器として、熊本県大矢遺跡・石の本遺跡・太郎迫遺跡のものなどが知られていましたが、それらは後の検証によって否定されています(小畑 2016)。
 他にも縄文時代後期の稲籾圧痕土器としては、岡山県南溝手遺跡や鹿児島県水天向遺跡のものなどが知られていましたが、それぞれ縄文時代晩期末と弥生時代の土器である可能性が指摘されています(設楽 2014・小畑 2016)。

参考文献
小畑弘己『タネをまく縄文人』吉川弘文館,2016
設楽博己『縄文社会と弥生社会』敬文舎,2014
寺前直人『文明に抗した弥生の人びと』吉川弘文館,2017
中沢道彦「日本列島における農耕の伝播と定着」『季刊考古学』138,雄山閣,2017
藤尾慎一郎『縄文論争』講談社,2002

2-2.【45-55頁までの検証】

2-2-1:朝鮮半島南部に「縄文遺跡」は存在するのか?
 著者は『日本人はるかな旅4』を援用して、「朝鮮半島南部から縄文遺跡が相次いで発見され、縄文時代の人たちはこの地まで進出していたことが明らかになった(※」と述べています。しかし、引用元では縄文土器が出土したと書くのみで、縄文人が朝鮮半島に行った動機も交易目的だったとしています。つまり著者は、縄文土器が出土した事実だけで、それを「縄文遺跡」と呼んでいるわけですが、これはあくまで著者の願望に過ぎません。
 現在までの研究によれば、縄文人は縄文時代早期末から朝鮮半島南部との交流を持っていました。しかし、朝鮮半島における縄文土器の出土点数は、在来系土器に占める割合に対して0.1%未満と僅かなものであり、朝鮮半島では縄文土器が主体的に出土する遺跡は存在しません(田中,古澤 2013)。
 本書で「……大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した(※」と紹介されている東三洞貝塚も、実際の出土量は縄文時代前期から後期の土器片が、合計で50点程度でした(下図)。その中で最も多く出土しているのは後期前葉のものですが、他の時期はせいぜい数点の出土に限られます。これが著者の主張する「縄文遺跡」の実態です。

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(古澤 2014)より

 逆に対馬では、縄文時代前期から中期の遺跡で、朝鮮半島系土器が主体的に出土する例があります(古澤 2019)。つまり縄文人が朝鮮半島に行くだけではなく、朝鮮半島の人々も対馬に進出していました。著者は、「縄文時代の人たちはこの地まで進出していたことが明らかになった(※」と述べていますが、その逆もあったわけです。
 続けて著者は、「当時の九州の人たちは、縄文時代から半島南部に根をはり、日本と半島、場合によっては大陸を含む交易に従事していた(※※」と述べています。しかし、朝鮮半島から出土する縄文土器の分布は、ほとんどが東南部から中南部の海岸地域や離島に集中しています(田中,古澤 2013)。こうした分布を見る限りは、縄文人は朝鮮半島南部のごく限られた地域を訪れていただけで、それ以上の事実は見出せないでしょう。
 著者は最後に、2001年のNHKスペシャル(?)を引用して、韓国の勒島遺跡で縄文時代晩期から弥生時代中期の土器が出土したことに触れて、「今まで、「大勢の渡来人が日本へとやって来た」とされた時代、逆に、かなりの日本人が半島へと進出していた(※※※」と述べました。
 しかし、縄文時代後期後葉から弥生時代前期前葉までの間は、朝鮮半島で日本の土器が出土することは稀で、出土数が増えるのはそれ以降になります(田中 2013)。つまり著者の言う「大勢の渡来人が日本へとやって来た」とされた時代、日本から朝鮮半島への人の流れは、ほとんどありませんでした。
※本書46頁,※※本書48頁,※※※本書48-49頁

2-2-2:弥生土器は日本で独自に作られた土器なのか?
 著者は、「弥生土器とは日本列島の人々が造った土器なのである(※」と述べていますが、本当にそうなのでしょうか。
 かつて縄文時代から弥生時代への移行は、夜臼式土器から板付式土器への変化によって定義されていました。すなわち前者が縄文土器で、後者が弥生土器になります。しかし、夜臼式土器の頃から水田稲作を行っていたことが分かったので、弥生時代を土器形式の変化で定義するのではなく、水田稲作の出現という生業形態の変化で定義するようになりました(春成 1990)。その為、従来は縄文土器に分類されていた突帯文土器の山ノ寺式や夜臼式が、今では最古の弥生土器に分類されています。
 また、これらの土器形式からは、朝鮮半島の無文土器文化の影響が認められます。縄文時代の九州では壺形土器が存在しませんでしたが(春成 1990)、弥生時代には無文土器とよく似た壺形土器が作られるようになります。同様に、煮沸具の甕形土器も無文土器に由来するものが出現して、無文土器と同じ製作技法で作られる土器の割合が徐々に増えていきました(家根 1987)。
 縄文土器は、基本的に輪状の粘土紐を積み上げていく輪積み法で形成されています(可児 2005)。突帯文土器では直径1.5~2cmの粘土紐を使い、粘土紐の上面を土器の内側に向かって傾斜させる内傾接合という手法が用いられています。無文土器では幅4~5cmの粘土帯を使い、粘土帯の上面を土器の外側に向かって傾斜させる外傾接合という手法が用いられています(家根 1987)。

内傾接合と外傾接合

内傾接合と外傾接合

(設楽 2014)より

 粘土の積み方以外では、器面調整と呼ばれる土器表面の整え方にも違いがあります。無文土器から影響を受けた弥生土器では、縄文土器には無かった刷毛目による器面調整が行われるようになりました(家根 1987)。
 焼成方法も、縄文土器は開放型野焼きなのに対して、無文土器は覆い型野焼きで焼成されています。縄文土器は焼成後にベンガラを塗っていますが、無文土器はベンガラを塗った状態で焼成しました(小林,他 2003)。
 今までに挙げてきた粘土帯・外傾接合・刷毛目調整・覆い型野焼きという無文土器の製作技法は、弥生時代前期になると遠賀川式土器の標準的な製作技法として、西日本一帯に広がります(宮本 2017)。このように製作技法を見る限りでは、弥生土器を「日本列島の人々が造った土器」とは言えません。
 他方、無文土器の製作技法は、遼東半島の偏堡文化に起源があると考えられています(宮本 2017)。
※本書49頁

2-2-3:縄文時代晩期に水田稲作は行われていたのか?
 前述の通り、水田稲作の開始が弥生時代の指標になったので(藤尾 2015)、かつて縄文時代晩期とされた水田遺構が、現在は弥生時代早期のものになりました。しかし、著者は「灌漑施設を持たない米づくりは、更に古い時代から行われていたに違いない(※」とも述べています。
 確かに、弥生時代早期に少し先行する縄文時代晩期末の島根県板屋Ⅲ遺跡からは、稲籾圧痕を付けた突帯文土器が出土しています。現時点では、これが日本最古の稲の痕跡になります(藤尾 2015)。
 このように、西日本では北部九州で水田稲作が始まる前から、稲作の存在を示唆する遺物が出土していました。その為、この頃から稲作が行われていた可能性もあります。しかし、著者が述べた「更に古い時代」というのは、それまでの主張を振り返れば、決して土器形式をひとつ遡る程度の尺度ではないことが読み取れますが、それを裏付ける確実な証拠は存在しません。
※本書51頁

2-2-4:支石墓の被葬者は縄文人なのか?
 著者は、「大陸ゆかりの支石墓の被葬者故、誰もが渡来系形質と思ったところ十四体の被葬者全てが縄文系だった(※」と述べていますが、本当にそうなのでしょうか。本書で紹介されている福岡県新町遺跡の人骨には、縄文人的特徴があるのは事実ですが、その一方で渡来人的特徴があることも知られています。
 新町遺跡の9号人骨については、眼窩示数という数値が渡来系弥生人に準じていたので、縄文人と渡来人の混血だった可能性があります(田中 1991)。このことを踏まえると、支石墓の被葬者をそのまま「縄文系」と呼ぶべきなのかは疑問ですが、これについては第九章で答えを出したいと思います。
 また、支石墓は弥生文化の中で、どのような位置付けの墓制なのでしょうか。これは弥生時代の最初期に出現する墓制ですから、弥生文化を象徴するような墓制に見えてしまいます。しかし、ほとんどの支石墓は、福岡平野以西の限られた地域にしか分布していないので、どちらかと言えばマイナーな存在でした。
 西北九州で支石墓が出現した後、福岡平野には木棺墓という墓制が出現します。当地で板付式土器を成立させた人々の墓制であり、こちらが弥生文化においては主流的な地位を得ます。また、福岡平野での被葬者には、渡来系弥生人が含まれていることも確認されています(宮本 2017)。
※本書54頁

2-2-5:菜畑遺跡は”渡来人のムラ“だった!
 著者は、松木武彦氏が書いた『日本の歴史 列島創世記』という本を取り上げて、菜畑遺跡に関する記述に対して「松木氏は「縄文土器のみが出土した」を欠落させた(※」と批判しています。
 しかし、これは前述のように、弥生時代の定義が見直されたことと関係しているはずです。つまり菜畑遺跡は、現在では弥生時代の遺跡になりますから、「縄文土器のみが出土した」とはなりません。
 また著者は、同じ文脈中で「この文を読む人たちは、菜畑遺跡を”渡来人のムラ“と受けとる恐れがあるからだ(※」とも述べています。同遺跡と渡来人が無関係であるかのように主張していますが、本当にそうなのでしょうか。
 そもそも菜畑遺跡の山ノ寺式土器には、慶尚南道の大坪里遺跡に由来する甕形土器と壺形土器が含まれていました。前者は板付祖型甕と呼ばれていますが、これは次の夜臼式土器の段階を経て、板付式土器の標準的な甕形土器へと発展します(家根 1987・春成 1990)。
 菜畑遺跡からは、抉入柱状片刃石斧・扁平片刃石斧・のみ状片刃石斧・石包丁・石剣・柳葉形石鏃などの大陸系磨製石器も出土しています。これらは名前の通り、中国大陸や朝鮮半島に起源を持っていますが(春成 1990)、下図の両刃石斧(蛤刃石斧)については、最近になって縄文時代の石斧に由来していることが明らかにされました(森 2019)。
 他にも、彎弓という弦輪を使った弓や(松木 1985)、猪の下顎骨に穴を開けて木の棒を通した祭祀具も出土していますが(甲元 2004)、これらも朝鮮半島から入ってきたものです。

大陸系磨製石器の例

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(寺前 2017)より

 このように、著者が縄文人の遺跡として持ち上げていた菜畑遺跡は、縄文文化からの連続性だけでは説明できない要素を持った遺跡であり、渡来人の存在抜きには語れません。確かに、菜畑遺跡から出土する渡来系遺物の割合は少数ですが、そうした少数の渡来人によって水田稲作が始められたのは、疑いようのない事実と言えるでしょう。
※本書55頁

参考文献
寺前直人『文明に抗した弥生の人びと』吉川弘文館,2017
可児通宏『縄文土器の技法』同成社,2005
甲元眞之『日本の初期農耕文化と社会』同成社,2004
小林正史,久世建二,北野博司「黒斑からみた弥生土器の覆い型野焼きの特徴」『日本考古学』16,日本考古学協会,2003
設楽博己『縄文社会と弥生社会』敬文舎,2014
田中聡一,古澤義久「韓半島と九州」『季刊考古学』125,雄山閣,2013
田中聡一「対馬島と韓半島南海岸地域との海上交渉」『石堂論叢』55,東亜大学校石堂伝統文化研究,2013
田中良之「いわゆる渡来説の再検討」『日本における初期弥生文化の成立』横山浩一退官記念事業会,1991
春成秀爾『弥生時代の始まり』東京大学出版会,1990
藤尾慎一郎『弥生時代の歴史』講談社,2015
古澤義久「玄界灘島嶼域を中心にみた縄文時代日韓土器文化交流の性格:弥生時代早期との比較」『東京大学考古学研究室研究紀要』28,東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室,2014
古澤義久「縄文時代の対馬島」『考古学ジャーナル』725,ニューサイエンス社,2019
松木武彦「原始古代における弓の発達:とくに弭の形態を中心に」『待兼山論叢:史学篇』18,大阪大学,1985
宮本一夫『東北アジアの初期農耕と弥生の起源』同成社,2017
森貴教「磨製石斧からみた弥生のはじまり」『考古学ジャーナル』729,ニューサイエンス社,2019
家根祥多「弥生土器のはじまり」『季刊考古学』19,雄山閣,1987

2-3.【55-62頁までの検証】

2-3-1:日本列島と朝鮮半島南部の稲作開始時期
 著者は、「日本の方が韓国より三千年も早くからコメ栽培が行われていたことになる(※」と述べています。しかし、これは2-1でも書いたように、現在ではほとんど否定されています。その一方で水田稲作は、北部九州では紀元前10世紀後半から始まります(藤尾 2015)。第二章の最後で、「日本では六〇〇〇年前には陸稲が栽培されており、三〇〇〇年前には水田稲作が行われていたが(※※」と書かれていますが、後者については正しかったことになります。
 2-2でも触れましたが、これに先行する時期の島根県板屋Ⅲ遺跡からは、稲籾圧痕を付けた土器が発見されています。これは紀元前11世紀のものであり、現時点では日本最古の稲の痕跡です(藤尾 2015)。中沢道彦氏は、同遺跡では稲を小規模な湿田で栽培していたと考えています(中沢 2019)。これが正しければ、水田稲作の開始時期は若干早まることになりますが、灌漑式水田稲作が北部九州で始まることに変わりはありません。
 また同遺跡では、朝鮮半島の孔列文土器とよく似た土器も出土しており、これにも稲籾圧痕がありました(藤尾 2015)。孔列文土器は青銅器時代前期の無文土器ですが、同時期の九州や中国地方の遺跡からは、これを模倣した擬孔列文土器が出土しています(藤尾 2002)。土器以外にも、北九州市の遺跡からは、大陸系磨製石器の石包丁が出土しています(藤尾 2002・宮本 2007)。これらのことから、北部九州で水田稲作が始まる直前の時期には、既に朝鮮半島の渡来人が西日本各地に出現していた可能性があります。
 著者は、朝鮮半島での稲作開始時期を「半島でのコメ栽培は紀元前千年頃(※」としていますが、これは古い情報です。朝鮮半島南部の稲籾圧痕土器は、青銅器時代早期前半の渼沙里遺跡からの出土例が、現時点で最古になります(小畑 2016)。これは日本だと縄文時代後期後半に相当する時期なので、同地では日本よりも数百年早く稲作が行われていました。つまり日本の稲作が、朝鮮半島に先行していた事実はありません。この時期の朝鮮半島南部では、畑で稲を栽培していました。水田稲作が出現するのは、青銅器時代前期の紀元前11世紀頃になります(藤尾 2015)。
※本書57頁,※※本書62頁

2-3-2:水田稲作は朝鮮半島からやって来なかったのか?
 著者は、「大陸から直接「b変形版」がもたらされたのに、何故「a変形版」だけは遠回りして大陸から畑作地帯の半島に流入し、日本へとやって来たのか。その根拠が分からない(※」と述べていました。
 佐藤洋一郎氏の研究によれば、日本列島・中国大陸・朝鮮半島に分布する水稲在来品種は250品種あり、それらのRM1という遺伝子マーカーはa~hの8種類に区別できるそうです。日本にはabcがあり、aとbがcよりも優位に分布しています。中国大陸には8種類全てあり、bが過半数を占めるほど優位に分布し、次点のaと極少数のc~hという割合になっています。朝鮮半島にはbを除く7種類があり、前者とは対照的にaが過半数で、次点がcという割合になっています(佐藤 2002)。
 つまり朝鮮半島にbの水稲が無ければ、この品種は中国大陸から朝鮮半島を経由しないで、日本に直接伝播したことになります。しかし、aの水稲については、朝鮮半島が最も高い割合を占めています。そうすると、この品種は朝鮮半島から日本に直接伝播した蓋然性が高いことになります。cの水稲についても、同様のことが言えるでしょう(下図)。

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(佐藤 2002)より

 弥生時代早期の北部九州では、水田稲作と共に朝鮮半島由来の物質文化が出現しています。2-2でも書いたように、山ノ寺式土器の成立には無文土器文化が関与していました。石器組成には、穂摘具の石包丁や木製農具を作る為の磨製石斧類など(藤尾 2015)、大陸系磨製石器が加わっています。これらの石器は山東半島に起源があり、遼東半島と朝鮮半島を経由して北部九州に伝播しました(宮本 2017)。
 これに付け加えると、弥生時代の小区画畦畔型水田という方形状の規格的な小区画水田も、山東半島から朝鮮半島を経由して北部九州に伝播した可能性が高いようです(宮本 2017・宮本,他 2019)。
 北部九州で水田稲作が始まる際、水稲品種・木製農具・水田造成技術などが、それぞれ別の地域から同時に伝播したと考えるのは非現実的です。水田稲作は、ひとつの技術体系として朝鮮半島から伝播してきたと考えるのが最も妥当でしょう。
※本書59-60頁

2-3-3:渡来人は温帯ジャポニカだけを持っていたのか?
 著者は、「仮に、渡来人のもたらした水田稲作により、狩猟採集の縄文時代から弥生時代という新時代に取って代わったとするなら、弥生時代以降のイネは水稲であり、弥生時代の遺跡からは水稲種=温帯ジャポニカが出土するはずである(※」と述べています。
 上記では古代の朝鮮半島に、温帯ジャポニカだけしか存在しないかのように書かれていますが、実際には韓国の遺跡からも熱帯ジャポニカが出土していました(「韓国の炭化米に熱帯ジャポニカ:半島ルートの伝来浮上」『日本経済新聞』2001.10.22 朝刊)。
 山東半島でも、大汶口文化後期以降に熱帯ジャポニカが栽培されるようになるので(宮本 2017)、これが温帯ジャポニカと一緒に朝鮮半島に伝播して、渡来人が両方の品種を日本列島に持ち込んだ可能性が考えられるでしょう。
※本書61頁

2-3-4:水田稲作の起源について
 著者は、「縄文時代の人たちが何千年も栽培してきた陸稲に、水田稲作の要素を少しずつ加えていったからこそ、弥生時代以降の遺跡から出土する米に熱帯ジャポニカが発見されてきたのだ(※」と述べています。つまり著者の主張が正しければ、日本の水田稲作は陸稲栽培から発展して成立したことになります。しかし、これは水田稲作の成立過程を見ていくと、実態からは乖離していることが分かります。
 池橋宏氏によれば、陸稲は水稲に比べると野生稲から離れた性質を持っているので、陸稲から水稲へという順序で変化することは考え難いそうです。野生稲は水辺の植物ですから、野生稲と同じ環境で栽培する水稲が、焼畑で栽培する陸稲に先行して成立したことになります(池橋 2005)。
※本書62頁

参考文献
池橋宏『稲作の起源』講談社,2005
小畑弘己『タネをまく縄文人』吉川弘文館,2016
佐藤洋一郎『稲の日本史』角川学芸出版,2002
中沢道彦「レプリカ法による土器圧痕分析からみた弥生開始期の大陸系穀物」『考古学ジャーナル』729,ニューサイエンス社,2019
藤尾慎一郎『縄文論争』講談社,2002
藤尾慎一郎『弥生時代の歴史』講談社,2015
宮本一夫「中国・朝鮮半島の稲作文化と弥生の始まり」『弥生時代はどう変わるか』学生社,2007
宮本一夫『東北アジアの初期農耕と弥生の起源』同成社,2017
宮本一夫,宇田津徹朗,小畑弘己,三阪一徳「東北アジア初期農耕化4段階説と稲作農耕の諸問題」『東北アジア農耕伝播過程の植物考古学分析による実証的研究』 九州大学大学院人文科学研究院考古学研究室,2019

3.第三章 縄文・弥生の年代決定に合理的根拠はあったのか

 第三章は考古学者の見解をほぼなぞっているだけなので、その部分は飛ばします。しかし、縄文土器のことについては補足しておく必要があります。

3-1.【76-77頁までの検証】

3-1-1:縄文土器は世界最古の土器なのか?
 本書では「縄文土器は世界最古の土器だった(※」と書かれていますが、現在は違います。世界最古とされた土器とは、青森県大平山元Ⅰ遺跡で出土した土器片のことで、放射性炭素年代測定で16000cal BPの年代値が得られていました。確かに本書が出版された2010年時点では、これが世界最古で間違いありません。
 しかし、世界最古の土器片は、後に中国で出土したものに取って代わられます。2012年には、中国南部の仙人洞遺跡で出土した土器片から、更に古い20000cal BPの年代値が得られていることが明らかになりました(橋詰 2015)。
※本書76頁

●26が仙人洞遺跡

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(橋詰 2015)より

参考文献
橋詰潤「環日本海北部地域における土器出現期:アムール川下流域と北海道を中心に」『考古学ジャーナル』677,ニューサイエンス社,2015

4.第四章 反面教師・NHK『日本人はるかな旅』に学ぶ

4-1.【84-99頁までの検証】

4-1-1:紀元前10世紀の渡来は何が要因だったのか?
 著者は、弥生時代の始まりが500年遡ったことで、「わが国における水田稲作は、大陸の歴史と連動しないのである(※」と述べています。確かに、中国の春秋戦国時代とは連動しなくなります。しかし、韓国の青銅器時代の年代は、弥生土器との併行関係を基準にしていたので(藤尾 2009)、弥生時代が紀元前10世紀に始まるのなら、青銅器時代もそれに合わせて変化していきます。2-3では、朝鮮半島の稲作が北部九州に先行していたことを書きましたが、なぜ朝鮮半島の農耕民は南下していったのでしょうか。
 宮本一夫氏によれば、東北アジアの農耕拡散は4段階に分けられ、それぞれが寒冷期に対応しているそうです。最後の4段階目が弥生時代の開始期になり、この時の気候変動に起因する人口圧が、朝鮮半島の農耕民を北部九州に渡来させる一因になったとしています(宮本 2017)。
※本書87頁

4-1-2:九州縄文人は大きな歯を持っていたのか?
 著者は、「今まで調査された縄文人骨は主に東日本、弥生人骨の多くは北部九州や土井ヶ浜方面のものだから、この違いは縄文以前に流入した人々の地域差の可能性が残されている(※」と述べてます。つまり弥生人の渡来を否定する為に、縄文人と弥生人の歯の大きさの違いを、在来集団の地域差で説明しようとしていました。
 しかし、渡来系弥生人の身体的特徴は、今から約2万年前のバイカル湖のあたりで寒冷適応した北方モンゴロイドに起源があります。その後、彼らは今から5千年前までに、シベリアから中国北部へ南下するので(馬場 1998)、北方モンゴロイドの形質を持った人々が、縄文時代以前から九州などに住んでいたとは思えません。
 著者の主張が見当違いなのは、出土した九州縄文人の人骨を見ても明らかです。福岡県山鹿貝塚と熊本県御領貝塚からは、縄文時代後期の人骨が出土していますが、歯の大きさは渡来系弥生人と比べて小さい傾向にありました(園田,井上 2014)。歯は大きく複雑な形状から、小さく単純な形状に退化していくので(松村 1998・中橋 2015)、小さい歯の縄文人が大きい歯の弥生人に進化することはありません。

×印が九州縄文人の歯冠計測値の平均値

画像13

(園田,井上 2014)より

 このように、九州縄文人の人骨を見ても、歯が大きかった証拠は見出せませんでした。縄文人の歯の大きさに地域差が無ければ、北部九州や土井ヶ浜の弥生人は、縄文人とは異なる出自を持っていたことになるでしょう。
 著者は、これを否定する為に第四章で「ヒトの歯も変わって行く(※※」という持論を述べました。しかし、これは4-2で書きますが、著者の根拠はミスリードが発端になっていました。
※本書94頁,※※本書103頁

4-1-3:有光教一氏の発言について
 有光教一氏は、司馬遼太郎氏らとの鼎談で「朝鮮半島南部には、日本の弥生式土器、それに伴う石器と類似の物が、かなり濃密に分布しているので、同様の文化が根を下ろしていて、それが日本に来た、と私は考えたい(※」と述べたそうです。
 著者はこれに反論していますが、2-2や2-3でも書いたように、弥生土器や大陸系磨製石器の起源は朝鮮半島にありました。つまり結果的には、有光氏の主張が正しかったことになります。
 しかし、上記の鼎談は1975年に行われているので、当時はまだ弥生土器と無文土器の系譜的な繋がりが明らかにされていません。大陸系磨製石器については、戦前から類似のものが朝鮮半島や満州からも出土していることが知られていました。その為、当時から弥生土器の使用者は大陸からの渡来人だと考えられていました(石川 2017・寺前 2017)。有光氏の発言は、そうしたことを踏まえたものだったのでしょう。
※本書95頁

参考文献
石川日出志「歴史学における弥生文化論の位置」『季刊考古学』138,雄山閣,2017
園田真之,井上貴央「山陰弥生人の頭蓋と歯の形態学的研究」『米子医学雑誌』65(6),米子医学会,2014
寺前直人『文明に抗した弥生の人びと』吉川弘文館,2017
中橋考博『倭人への道』吉川弘文館,2015
馬場悠男「縄文顔と弥生顔から日本人のルーツを探る!」『逆転の日本史:日本人のルーツここまでわかった!』洋泉社,1998
藤尾慎一郎「弥生時代の実年代」『新弥生時代のはじまり:弥生農耕のはじまりとその年代』雄山閣,2009
松村博文「歯の裏側が平らなら縄文系・シャベル状なら弥生系」『逆転の日本史:日本人のルーツここまでわかった!』洋泉社,1998
宮本一夫『東北アジアの初期農耕と弥生の起源』同成社,2017

4-2.【99-117頁までの検証】

4-2-1:北海道の遺跡について
 本書には、「5000年前の茶津遺跡や礼文華遺跡から、渡来人と判別される歯を持った人骨が出土している(※」という解説がありますが、これは誤りです。正しくは、弥生時代と並行する続縄文時代前期の遺跡なので、今から約2000年前になります。著者が引用している『日本人はるかな旅5』にも書かれていることなのですが、なぜ間違えてしまったのでしょうか。
 著者が本書で取り上げた茶津遺跡は、引用元だと茶津4号洞穴という名称でした(松村 2002)。他方、本書に出てきた茶津遺跡は、縄文時代中期の遺跡として存在しています。恐らく著者は、茶津4号洞穴を茶津遺跡という名称で認識してしまい、このような間違いを犯してしまったようです。しかし、なぜ礼文華遺跡の年代まで間違えてしまったのかは不明です。
 また、茶津4号洞穴と礼文華遺跡の渡来系人骨は、それぞれオホーツク人と渡来系弥生人の特徴を持っていました(松村 2002)。当時の北海道に南北から渡来人が来ていたことになりますが、年代的には不自然ではありません。
※本書104頁

4-2-2:ATLウイルスキャリアの存在は何を意味するのか
 成人T細胞白血病(ATL)の原因であるHTLV-1というウイルスは、日本に一定割合の感染者が存在しています。逆に、朝鮮半島や中国大陸には感染者が全く存在しない為、弥生時代の渡来人もこのウイルスを持たなかったと考えられています(田島 1998)。平成初期のATL患者とHTLV-1感染者の分布は(以下、患者と感染者)、ほとんどが西日本に集中していました(下図)。
 これに対して著者は、「渡来人が最初に上陸し、そこに住み、混血し、人数も増えたのなら、九州や土井ヶ浜でのキャリアが真っ先に少なくなって然るべきである(※」と述べています。つまり渡来人がウイルスを持っていないのなら、彼らが行く先の患者と感染者は減少するはずですが、実際はそうなっていません。このように著者は、患者と感染者の存在を逆手に取って、渡来を否定しています。

平成初期のATL患者とHTLV-1感染者の地理分布

画像9

画像10

(田島 1998)より

 しかし、著者が論じているデータは、あくまで現代のものです。縄文人に由来するウイルスであっても、上図の地理分布には弥生時代から現代までの動態が反映されているはずですから、それを考慮した上で見ていく必要があります。
 九州における患者と感染者は、西北九州と南九州に最も多く集中していますが、これは弥生時代からの連続性がありそうです。九州の弥生時代の遺跡では、北部九州からは渡来人的形質の人骨が多数出土している一方で、西北九州と南九州からは縄文人的形質の人骨が出土しています(片山 2013)。
 西北九州弥生人については、渡来人との混血を示唆する研究結果が出ていますが(田中 1991・篠田 2019)、北部九州などの渡来系弥生人に比べれば、その影響は少なかったと言えます。南九州も、古墳時代の遺跡からは渡来人的形質の人骨が出土するようになるので(竹中 2012)、両地域での在来系から渡来系への置換は、北部九州よりも緩やかに進行しました。
 西北九州と南九州に患者と感染者が多いのは、こうした歴史的経緯によるものと考えられます。それなら北部九州の患者と感染者が、両地域に次いで多く見えるのはなぜでしょうか。
 北部九州の福岡県は、九州では人口が最も多く経済的にも発展していますが、九州各県からの転入も集中しています(恒吉 2016・田村,坂本 2019)。北部九州における患者と感染者の多さは、こうした現代の人口流入によって増加した可能性が十分考えられます。つまり北部九州の状況は、西北九州と南九州の人々が移住した結果ということになります。
 著者は、「だが菜畑遺跡のある佐賀、板付遺跡のある福岡、土井ヶ浜のある山口県西部の辺りにATLキャリアが多く(※※」と指摘していましたが、佐賀県と福岡県の患者と感染者の多さについては、その要因をそれぞれ弥生時代と現代から導き出すことができました。
 山口県西部については、上図(図1)の黒い場所をよく見ると、土井ヶ浜よりも瀬戸内海側の工業地帯を指しています。山口県も1950年代から、福岡県を除く九州各県からの転入が続いていました(宗近 2017)。その為、人口が集中している工業地帯にATLキャリアが多ければ、福岡県と同様のことが考えられます。
 続いて著者は、「対馬、隠岐の島、五島列島、長崎などは更に高い感染率になっている(※※」と指摘しました。最後に、九州本島と朝鮮半島の中間に位置する対馬で、患者と感染者が多い理由を考えてみましょう。
 対馬は、魏志倭人伝にも「無良田、食海物自活」と書かれているように、弥生時代の人々は漁撈を生業にしていました(川上 2019)。水田稲作に適した土地が少ない為、朝鮮半島からの渡来人にとって対馬は、あくまで九州本島への経由地だったとされています(端野 2003)。対馬では弥生人骨がほとんど出土していませんが、渡来系弥生人は水田稲作の適地に向かって拡散していくので(田中 1991)、西北九州と南九州のように、対馬にも渡来人が積極的に定着しなかった可能性が考えられます。
 しかし、対馬と言えば鎌倉時代の元寇によって、多大な人的被害を被ったとも伝えられています(瀬野 1972)。つまり対馬島民には、古代からの連続性に不透明な部分もあるので、患者と感染者が多い要因は比較的新しい時代に求められるかもしれません。
※本書110頁,※※本書113頁

参考文献
片山一道『骨考古学と身体史観』敬文舎,2013
川上洋一「弥生時代の対馬の人々と土器」『考古学ジャーナル』725,ニューサイエンス社,2019
篠田謙一『新版 日本人になった祖先たち』NHK出版,2019
瀬野精一郎『長崎県の歴史』山川出版社,1972
竹中正巳「古墳時代:中央と辺境」『季刊考古学』118,雄山閣,2012
田中良之「いわゆる渡来説の再検討」『日本における初期弥生文化の成立』横山浩一退官記念事業会,1991
田島和雄「南米インディオと現代日本人の一部は共通の先祖を持っていた!」『逆転の日本史:日本人のルーツここまでわかった!』洋泉社,1998
田村一軌,坂本博「九州における若者の地域間移動に関する研究」『AGI Working Paper Series』2019(11),アジア成長研究所,2019
恒吉紀寿「〈九州〉における地域構造の分析枠組み:市町村の構造的理解とリージョンとしての九州」『社会教育研究紀要』2, 九州大学大学院人間環境学研究院社会教育研究室,2016
端野晋平「支石墓伝播のプロセス:韓半島南端部・九州北部を中心として」『日本考古学』16,日本考古学協会,2003
松村博文「歯が語る日本人のルーツ」『日本人はるかな旅』5,日本放送出版協会,2002
宗近孝憲「山口県および県内市町における人口流出の状況」『やまぐち経済月報』511,山口経済研究所,2017

5.第五章 もはや古すぎる小山修三氏の「縄文人口推計」

5-1.【120-134頁までの検証】

5-1-1:そもそも遺跡の数が増えると人口も増えるのか?
 小山修三氏の人口推計が古いのは事実ですが、著者が「三五年間の遺跡発掘データを生かし、人口推計を見直されることを切望する次第である(※」と訴えているように、新たに発掘された遺跡の数を人口推計に反映させれば良いということでもありません。
 狩猟採集民の生活様式には、食料資源を求めて漸次移動するフォレジャー型・拠点集落と季節性の移動キャンプを持つコレクター型・通年でひとつの場所に住み続ける定住村落型という類型があります(下図)。

佐々木高明『日本史誕生』98

(佐々木 1991)より

 縄文人の場合、縄文時代早期の段階では、まだ季節によって住居を変えていたようですが、前期以降になると定住村落型が出現します(佐々木 1991)。しかし、関東地方では前期後半の段階で、より定住性の低いフォレジャー型に移行する集団も存在したようです(羽生 2000)。また、西日本では前期以降も、コレクター型の生活様式が存在しているので(山田 2015)、縄文人の生活様式は時期を問わず多様でした。
 つまり縄文時代には、季節によって人が住んでいない集落や、放棄された集落が多数存在していたことになります。その為、遺跡の数だけ人が存在していたとは限らないので、縄文時代の正確な人口推計を行う場合、各時期の各地域ごとに縄文人の生活様式を把握していく必要があるでしょう。
※本書132頁

参考文献
佐々木高明『日本史誕生』集英社,1991
羽生淳子「縄文人の定住度(下)」『古代文化』52(4),古代学協会,2000
山田康弘『つくられた縄文時代』新潮社,2015

6.第六章 机上の空論・埴原和郎氏の「二重構造モデル」

6-1.【136-164頁までの検証】

6-1-1:鈴木尚氏の研究について
 著者は、鈴木尚氏の変形説を援用して、縄文人が弥生人になったと主張しています。つまり徳川将軍家が柔らかい物ばかり食べて、咀嚼器官が退化して現代的な顔立ちになったように、縄文人と弥生人の顔の違いも食生活の変化によるものだとしています。
 しかし、少なくとも鈴木氏は、北部九州と土井ヶ浜の弥生人骨を渡来系だと見なしていました。埴原和郎氏とは違い、渡来系弥生人は小規模な集団であり、日本人の形成に関与しなかったと考えていたのです(鈴木 1983)。このことは、本章で引用されている『骨から見た日本人のルーツ』にも書かれています。
 著者は第八章で、渡来系弥生人の女性人骨に対して「この女性は縄文晩期からコメを食べ続けて七~八〇〇年後に姿を現しただけだった(※」と述べているように、渡来系弥生人の起源も縄文人の小進化に求めていました。
 つまり著者は、鈴木氏が自説と真逆の結論を出していたにもかかわらず、同氏のデータが、あたかも自説を裏付けているかのように見せていたわけです。これは明らかなミスリードであり、埴原氏の「二重構造モデル」の反証にはなりません。
※本書202頁

6-1-2:農耕民の人口増加率はもっと高かった!?
 著者が本章で述べた百万人渡来説への反証は、全く的外れなものでした。そもそも、なぜこの説が下火になったのかと言うと、農耕民の人口増加率がこの説の想定よりも高かったことが分かり、渡来人の総数を百万人より少なく見積もれるようになったからです(篠田,藤尾 2005)。
 埴原和郎氏は、初期農耕民の人口増加率を0.2%で「やや高め」としていました(埴原 1993)。しかし、世界の初期農耕民の人口増加率を見ると、ハワイ諸島のポリネシア人で0.7%、北米先住民の中には1.7%だった例もあり、0.2%という数値は決して高くありません(中橋,飯塚 1998)。
 著者は、「考古学的裏付けゼロで、人口増加率を少し変えれば答はどうにでも動くような計算に、客観性などあろうはずがない(※」と述べて、人口増加率に考古学的な裏付けを求めていました。しかし、これについては中橋考博氏が、既にそうした研究をしています。同氏は、隈・西小田遺跡の弥生時代中期前半における甕棺墓数の変化から、少なく見積もっても1%前後の高い人口増加率があったことを明らかにしました(中橋 1993)。
 こうした研究によって、少数の渡来人が急激に人口を増やしながら、在来の縄文人と混血していったという現在の定説が形成されました。つまり百万人渡来説は誤りでも、「二重構造モデル」は正しかったことになります。
※本書150頁

参考文献
篠田謙一,藤尾慎一郎「ガチンコ対談:縄文人は弥生人の祖先か?」『縄文VS弥生』読売新聞東京本社,2005
鈴木尚『骨から見た日本人のルーツ』岩波書店,1983
中橋考博「墓の数で知る人口爆発」『原日本人:弥生人と縄文人のナゾ』朝日新聞社,1993
中橋考博,飯塚勝「北部九州の縄文~弥生移行期に関する人類学的考察」『人類学雑誌』106(1),日本人類学会,1998
埴原和郎「渡来人に席巻された古代の日本」『原日本人:弥生人と縄文人のナゾ』朝日新聞社,1993

7.第七章 統計的「偽」・宝来聡氏の「DNA人類進化学

 第七章ではミトコンドリアDNAのことが取り上げられていますが、本書が出版された2010年頃から、分子人類学には大変革が起きていました。それまでのDNA解析と言えば、古人骨から抽出したミトコンドリアDNAと、現代人のY染色体の解析が主流でした。しかし、それらよりもはるかに多くの情報量を持っている核ゲノムの解析が容易になったことで、世界的に新しい研究成果が次々と発表されるようになります。
 こうした現状を踏まえると、今日的な分子人類学の視点で日本人の起源を説明するなら、核ゲノムを取り上げないわけにはいきません。本書が出版された時期的に、それを欠いているのは仕方ありませんが、果たして核ゲノムの解析は、著者の主張に妥当性を与えるものだったのでしょうか。
 ここまで書きましたが、第七章で核ゲノムのことを書くと、第九章と内容が被ってしまいます。その為、この話題は第九章でまとめて取り扱いたいと思いますので、第七章は飛ばします。

8.第八章 偽にする仮説・中橋孝博氏の「渡来人の人口爆発」

8-1.【196-224頁までの検証】

8-1-1:中橋孝博氏は既に修正していた!?
 著者は、中橋氏が発表した人口推計シミュレーションに対して、「この計算モデルは修正すべき時に来ている(※」と批判しています。しかし、同氏は本書が出版される以前から、弥生時代の年代見直しに合わせて自説を修正していました。
 その場合は、渡来人の人口増加率が年率0.6~0.7%でも、縄文人を人口比で圧倒することが十分可能です(中橋,飯塚 2005)。
 また著者は、埴原和郎氏の説を援用して、年率0.4%の人口増加率を「異常に高い(※※」としていました。しかし、既に6-1で書いたように、世界の初期農耕民では人口増加率が年率1%を越える例もあるので、年率0.4%は決して高くありません。
※本書215頁,※※本書213頁

8-1-2:なぜ弥生土器は「渡来系の土器」と呼ばれたのか?
 著者は、「弥生土器は日本人の造った土器なのである(※」という認識を持っていました。その為、中橋孝博氏が弥生土器を「渡来系の土器(※」と呼んだことに対して、問題視しています。
 しかし、弥生土器の成立には、朝鮮半島の無文土器文化が関与していました。山ノ寺式・夜臼式土器の段階から、無文土器の影響を受けた甕形土器や壺形土器が作られるようになり、製作技法も無文土器のものを取り入れていきます。その割合は徐々に増加して、弥生時代前期の遠賀川式土器の段階には、無文土器の製作技法が標準化します(家根 1987)。
 弥生土器と無文土器は、表面仕上げが似ているだけではなく、粘土の積み方や焼成方法など、外見からは分からない部分まで同じ製作技法になっています。これは土器の製作者が、朝鮮半島から北部九州に渡来していたことを示す証拠になります(藤尾 2005・宮本 2017)。
 著者は、「稲作開始期の縄文遺跡、例えば菜畑遺跡や板付遺跡からは縄文土器しか出土しなかった(※※」と述べていますが、菜畑遺跡では無文土器の影響を受けた板付祖型甕が作られていました。考古学者は、この板付祖型甕の割合から、弥生時代早期の渡来人の数を見積もりました(藤尾 2005)。
 第九章で、篠田謙一氏の本から「北部九州の弥生早期の遺跡から出土する朝鮮系土器は、全体の一割程度だと言われています……考古学者は弥生時代早期の渡来人の数を、全体の一割程度と見積もっています(※※※」と引用されているのがそうです。つまり朝鮮系土器は、板付祖型甕のことを指しています。著者は、この朝鮮系土器が徐々に数を増やして、後の板付式土器や遠賀川式土器になるとは思いもしなかったようです。
※本書216頁,※※本書217頁,※※※本書234頁

8-1-3:弥生時代前期末の渡来人は何者なのか?
 弥生時代前期末から中期前半にかけて、北部九州では朝鮮半島系土器を伴う渡来人集落が出現するようになります。それらの集落には二通りのタイプがあり、それぞれ代表的な集落から名前を取って、諸岡タイプ・土生タイプと呼ばれています(片岡 1999)。著者は、後者に対して「かつて彼の地に渡来していた日本人やその関係者が、交流を通じて、或いは動乱を逃れ、出身地集落に戻ってきたのではないか(※」と述べていますが、このような考察に妥当性はあるのでしょうか。
 弥生時代中期は、弥生文化の中で金属器が本格的に使われ始める時期ですが、上記の渡来人集落が出現するのも、この動きと連動していました。片岡宏二氏によれば、渡来人集落には朝鮮半島から招来した青銅器工人を受け入れる役割があったとしています。実際に、土生タイプの遺跡からは朝鮮半島系土器と青銅器の鋳型が同時に出土する例が多いので、渡来人集落が青銅器工人の活動拠点になっていたと考えられています(片岡 1999)。
 著者は、この分野の研究者である片岡氏の本を何度も引用しながら、本書でそうした内容は取り上げていません。その代わりに、朝鮮半島に渡来していた日本人が戻ってきたという、不可解な自説を披露するのでした。
※本書222頁

8-1-4:渡来人には女性もいたのか?
 著者は第八章の最後で、篠田謙一氏の話を援用して「渡来系の女性は実質ゼロなので男が産まれたなら縄文系の女性を選ばざるを得ないからだ。こうして四代も続くと……ヒトの形態を決定する細胞内遺伝子のほとんどが縄文系となる(※」と述べていました。
 他方、弥生土器の成立に当たって、土器の製作者の渡来があったことは既に書きました。つまり著者が「そして土器は女性が造るというなら(※※」と言っているように、土器の製作者が女性であれば、女性も渡来していたことになるでしょう。その為、上記のような著者の持論は成立しません。
 しかし、縄文土器や弥生土器には、製作者の性別を明らかにできる証拠がありません。世界の民俗例では女性が多いので、日本でも女性が作っていた可能性は十分考えられますが、台湾のヤミ族のように男性が作っている場合もあります(可児 2005)。
※本書224頁,※※本書222頁

参考文献
片岡宏二『弥生時代渡来人と土器・青銅器』雄山閣,1999
可児通宏『縄文土器の技法』同成社,2005
中橋考博,飯塚勝「弥生時代の人口増加」『縄文VS弥生』読売新聞東京本社,2005
藤尾慎一郎「もので見る縄文から弥生への移り変わり」『縄文VS弥生』読売新聞東京本社,2005
宮本一夫『東北アジアの初期農耕と弥生の起源』同成社,2017
家根祥多「弥生土器のはじまり」『季刊考古学』19,雄山閣,1987

9.第九章 「Y染色体」が明かす真実

9-1.【226-266頁までの検証】

9-1-1:西北九州弥生人は縄文系なのか?
 著者は、「玄界灘に面した新町遺跡に続き、大友遺跡でも支石墓の被葬者は縄文系だった。そして人類学者や考古学者はこの理由が分からなかったという(※」と述べています。
 既に書きましたが、北部九州や土井ヶ浜で出土する弥生人骨は、縄文人とは形質的に異なる渡来系弥生人が多数を占めています。他方、西北九州と南九州では、縄文人的形質の弥生人骨が出土しています(片山 2013)。しかし、福岡県新町遺跡の西北九州弥生人には、形質的特徴から縄文人と渡来人の混血だった可能性がある個体も存在していました(田中 1991)。
 2019年になると、長崎県の下本山岩陰遺跡の弥生人骨から抽出された、核ゲノムの解析結果が公表されています。男女2体の人骨は、それぞれ縄文人的形質を備えていて、女性のミトコンドリアDNAも縄文人特有のM7aでした(篠田 2019)。この西北九州弥生人は、縄文人と渡来系弥生人の中間に位置していることが分かります(下図)。

『Yaponesian』1巻はる号

季刊誌『Yaponesian』1巻はる号より

 この解析結果によって、縄文人的形質の人骨であっても、遺伝的特徴には違いがあることが明らかになりました。西北九州弥生人は、渡来系弥生人と程度の違いはありますが、渡来人からの遺伝的影響を少なからず受けていたので、彼らをそのまま「縄文系」と呼ぶべきではありません。
 しかし、下本山岩陰遺跡は弥生時代後期なので、弥生時代早期の大友遺跡とは約1000年の時代差があります。その為、大友遺跡の西北九州弥生人は、渡来人との混血がまだそれほど進んでいなかったと考えられます。
 いずれにせよ、弥生時代後期までには渡来人との混血によって、西北九州弥生人の遺伝子は縄文人と明確な差異が生じています。著者は、「だが篠田氏は、関東縄文人と北部九州弥生人の人骨の違いを「遺伝子による」として再度軌道修正を行った(※※」と述べて、縄文人と弥生人の遺伝子が違っていることを否定していましたが、これは見当違いでした。
※本書236頁,※※本書239頁

9-1-2:著者の予想は当たらなかった!
 著者は、独断と偏見で日本人のミトコンドリアDNAとY染色体のハプログループの8割以上が、縄文人に由来するとしています(下図)。また、それを根拠に「現代日本人女性の八〇%以上は縄文系である(※」や「日本人男性遺伝子の約九割は縄文由来だった(※※」とも主張しました。
 しかし、母系に遺伝するミトコンドリアDNAと父系に遺伝するY染色体では、それぞれひとつの祖先系統しか分かりません。人間のDNAは、全て代々の祖先から少しずつ引き継がれていますが、細胞核外にあるミトコンドリアと、細胞核内にある1本の染色体から得られる遺伝情報は、非常に限定的なものです。つまりミトコンドリアDNAとY染色体を調べるだけでは、大多数の祖先の存在を無視することになります。
 他方、ここ数年間に古人骨から抽出された核ゲノムの解析結果が、いくつも発表されるようになりました。核ゲノムとは、細胞核内にある常染色体と性染色体のことであり、ミトコンドリアDNAとY染色体よりもはるかに多くの遺伝情報を持っています(斎藤 2017)。
 核ゲノムの解析では、SNPというDNA配列中の変異を比較して、その共通性の程度によって集団同士の近縁関係を調べることができます(篠田 2015)。著者の主張が正しければ、核ゲノムの解析結果もそれに沿った内容になるでしょう。

画像1

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(長浜 2010)より

 下図では、核ゲノムの解析結果を基に、各集団同士の近縁関係が視覚的に表されています。
 尻労安部・湯倉縄文人は隣接していますが、それぞれ縄文時代中期と早期の人骨なので、両者には約4000年の差があります。つまりそれだけ長い間、縄文人のDNAには大きな変化が起きていませんでした。
 他方、北海道縄文人の子孫とされるアイヌ人は、弥生時代以降に渡来してきたオホーツク人と混血した影響がある為、縄文人から少し離れています。
 そうしたことを踏まえると、日本人が縄文人と大きく離れていて、中国人に近いのはなぜでしょうか。これは日本人の形成に、大陸からの渡来人が大きく関与していることを端的に示しています。
 篠田謙一氏によれば、全ゲノム配列が解読できた北海道礼文島の船泊縄文人を使って計算すると、日本人に占める縄文人由来のDNAの割合は10%程度になるそうです。同氏は、西日本縄文人のDNAならもう少し大きな値になると予測していました(篠田 2019)。

画像14

(篠田 2015)より

 2021年になると、遂に九州の縄文人骨から抽出された核ゲノムの解析結果が公表されます(下図)。佐賀県の東名縄文人(下図:Higashimyo)は、他の縄文人とクラスターを形成していて、この場合でも約10%のDNAしか日本人には関係していませんでした。東名縄文人のゲノム配列は、約7%が解読されています(Noboru Adachi. et al. 2021)。
 これは三貫地縄文人(下図:SanganjiB)の約1.5%(篠田 2015)よりは多い値ですが、船泊縄文人(下図:F23)と伊川津縄文人(下図:IK002)は、全ゲノム配列が解読されています(覺張,太田 2017)。そうした違いがあるので、東名縄文人も全ゲノム配列が解読されていれば、もう少し違う結果になった可能性もありますが、それでも著者が主張するような結果にはならないでしょう。

安達登(2021)

(安達,他 2021)より

 また著者は、日本人のY染色体ハプログループの比率が、中国人や韓国人と違っていることを根拠に「日本人男性のY染色体頻度は近隣諸国と大きく異なっている。この分析結果は弥生時代以降に大勢の渡来人男性がやって来たとか、彼らの子孫だけが増えていったなる考え方を否定している」と述べています(前掲図:図-26)。
 しかし、篠田謙一氏によれば、Y染色体ハプログループの集団内比率は、ミトコンドリアDNAのそれよりも比較的短期間で変化するらしく、この違いは初期拡散より後の歴史的経緯によって生じた可能性が大きいとしています(篠田 2012)。実際に、核ゲノムの解析結果は著者の考え方を否定しているので、大量の渡来人がやって来たのか、少数の渡来人が短期間に人口を増やしていったということが考えられます。
 最後に、本書から脱線しますが、著者が2019年に出した本にも触れておきます。著者は、下図を使って「アイヌは縄文人の子孫ではありません」と述べていました(長浜 2019)。

画像7

(長浜 2019)より

 しかし、上図(図 9-5)を見れば、日本列島の現代人集団の中では、アイヌ人が縄文人に最も近いことが分かります。伊川津縄文人の核ゲノムに至っては、アイヌ人クラスターと重なる結果が得られています(覺張,太田 2017)。こうした縄文人のデータを示さないまま、恣意的な結論を出している著者の姿勢には悪意を感じます。
※本書245頁,※※本書257頁

参考文献
覺張隆史,太田博樹「愛知県伊川津貝塚出土人骨の全ゲノム解析」『日本文化財科学会第34回大会研究発表要旨集』日本文化財科学会,2017
片山一道『骨考古学と身体史観』敬文舎,2013
斎藤成也『核DNAでたどる日本人の源流』河出書房新社,2017
篠田謙一「DNAによる日本人の形成」『季刊考古学』118,雄山閣,2012
篠田謙一『DNAで語る日本人起源論』岩波書店,2015
篠田謙一『新版 日本人になった祖先たち』NHK出版,2019
田中良之「いわゆる渡来説の再検討」『日本における初期弥生文化の成立』横山浩一退官記念事業会,1991
長浜浩明『日本人ルーツの謎を解く』展転社,2010
長浜浩明『日本の誕生:皇室と日本人のルーツ』ワック,2019
Noboru Adachi. et al. 2021 “Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago” Anthropological Science. 129(1):13-22.

10.第十章 言語学から辿る日本人のルーツ

 本章で紹介されている言語年代学については、個別に取り上げてはいませんが、(ペラール 2016)のように学術的有用性を疑問視する見方もあります。

10-1.【268-289頁までの検証】

10-1-1:朝鮮半島にも日本語の痕跡があった!?
 著者は、「今から高々二千数百年前に大陸から大勢の人々がやって来て、或いは彼らがこの地で人口を増やし、大多数を占めるに至ったのなら、私たちの国語・日本語と近縁な言語が東アジアの何処かで見つかっても良いはずである(※」と述べていますが、かつて朝鮮半島には日本語と近縁な言語が存在していた可能性があります。
 三国史記という12世紀の朝鮮で編纂された文献には、8世紀頃まで存在していた旧高句麗支配地域の地名が記録されています。漢訳の地名と高句麗語を漢字で音写した地名が併記されていますが、その中には日本語と似たものがいくらか含まれています。
 板橋義三氏は、三国史記の高句麗地名から取り出した111語の単語の内、約7割が日本語と同根語で、19語が日本語の基礎語彙に対応しているとしています。日本語以外にも、中期朝鮮語・ツングース諸語・オーストロネシア諸語・新羅語・百済語との同根語も見出されていますが、その中では日本語が最も大きな割合を占めています(板橋 2003)。
 伊藤英人氏は、高句麗地名の中の確実な日本語と朝鮮語を復元して、それぞれ18語と15語の分布を示しました。ほとんどは朝鮮半島中部に集中していて、日本語と朝鮮語の地名はモザイク状に分布しています。同氏は、日本語話者が朝鮮半島を南下して日本列島に移住したと仮定した上で、両言語の地名がモザイク状に分布している理由を、朝鮮半島に残った日本語話者が朝鮮語と言語接触した際の痕跡と考えています(伊藤 2020)。
 長田夏樹氏は、弥生人の言語について「彼らの話した言語は、大陸ですでに朝鮮語や高句麗語と分かれて成立していた原始日本語であり、弥生式土器とともに次第に日本全土に広がっていったのではないだろうか」という見解を示しています(長田 1974)。
 このように日本語と高句麗語の類似から、日本語の起源を朝鮮半島に求める言語学者は少なくありません。最近では考古学的な視点からも、日本語の起源を朝鮮半島に求める説が出されるようになりました。
 宮本一夫氏は、(長田 1974)の仮説をより具体性のあるものに発展させています。縄文土器から弥生土器への移行に際して、朝鮮半島の無文土器と同じ製作技法で作られている土器の割合が徐々に増えていきました。縄文土器と無文土器では、粘土の積み方・一層当たりの粘土幅・表面仕上げ・焼き方などが異なります。弥生時代前期には、上記の製作技法がほとんど無文土器のものに置き換わり、斉一的に拡散していきます。西日本一帯の弥生土器が、粘土の積み方や焼き方など、土器の外観からは見えない部分に至るまで一様な変化を遂げているので、各地の人々が見よう見まねで同じ土器を作ったとは考えられません。つまり弥生土器の拡散は、日本語の拡散でもあり、言語による情報伝達がなければ説明できない現象なのです。
 同氏は、近年の欧米人学者らの日本語起源論を援用して、無文土器時代の朝鮮半島では古日本語が話されていたとしています。無文土器の起源については、製作技法が共通している遼東半島の偏堡文化段階の土器に求めています。既に古日本語を話していた偏堡文化の人々が、紀元前3千年紀の寒冷期に遼東半島を南下して、朝鮮半島西北部で無文土器文化が成立します。紀元前1千年紀の寒冷期には、朝鮮半島南部の無文土器文化の人々が南下して、北部九州に水田稲作と古日本語が伝わります(宮本 2017)。
 著者は、崎山理氏の言葉を援用して、「日本語と朝鮮語は全く別系統の言葉(※※」としていますが、仮に日本語と朝鮮語・高句麗語が同系言語ではなかったとしても、それは日本語の故地が朝鮮半島であることの否定にはなりません。
※本書270頁,※※本書275頁

10-1-2:縄文時代にオーストロネシア語族は渡来していたのか?
 著者がひいきにしている崎山氏は、「そして日本語とは東シベリアの現代ツングース諸語と現代オーストロネシア諸語の混合言語との結論に達したのです(※」と述べていますが、この仮説は荒唐無稽と言わざるを得ません。
 同氏は『日本語「形成」論』で、オーストロネシア語族が縄文時代後期から古墳時代にかけて、フィリピン方面から日本列島に波状的に渡来したとしています。しかし、そうした渡来を証明するような遺物が、日本の遺跡から発見されたという報告は現在までありません。同氏はこのことを承知しているので、代わりに(片山 1991)で言及されている縄文人とラピタ人の同源説を援用して、両者の関係を見出そうとしています(崎山 2017)。
 確かに、ラピタ人と同源の台湾原住民は、縄文人と遺伝的な関係があるので(小野 2018)、縄文人とラピタ人が共通祖先から分かれて成立した可能性はあります。しかし、これは縄文時代以前のことなので、オーストロネシア語族が縄文時代以降に渡来したという仮説の証明にはなりません。また、彼らが縄文時代以前から日本列島に存在していたことにもなりません。
 最近の研究では、オーストロネシア語族・オーストロアジア語族・タイ=カダイ語族が、今から9000年前までには中国の揚子江付近で、農耕民集団を形成していたとされています。オーストロネシア語族が拡散するのは、これよりずっと後の時代になります(ライク 2018)。
 この頃からオーストロネシア語族が存在していたのかは分かりませんが、仮に一部の縄文人が彼らと関係していても、それは崎山氏の仮説とは相容れないものです。同氏は、西部マライ・ポリネシア諸語やオセアニア諸語から日本語への影響を想定しているので(崎山 2017)、より古い時代のオーストロネシア語が日本語の形成に関与しているのであれば、全く別の仮説を立てる必要があります。
 また著者は、「大陸からやって来たのなら、その時代の山東省の土器が出土して然るべきなのに、その種の土器は出土しなかった(※※」と述べていたように、大陸からの渡来については、それを証明する遺物の出土を求めていました。しかし、このオーストロネシア語族渡来説については、なぜか無批判に受け入れています。
※本書279頁,※※本書91頁

10-1-3:縄文時代にツングース語族は渡来していたのか
 また崎山氏は、ツングース語族の渡来についても不可解な仮説を立てています。東日本には縄文時代からアイヌ民族が先住していたとしながら、次にツングース語族が渡来して、彼らが西日本で後来のオーストロネシア語族と接触したとしています(崎山 2017)。ツングース語族がオーストロネシア語族より前に渡来していたのなら、それは縄文時代後期以前ということになりますが、縄文時代には北方からの渡来があったのでしょうか。
 唯一それらしいものは、縄文時代早期の北海道に出現する石刃鏃文化くらいです。この文化はユーラシア大陸東北部の広い範囲に分布しているので、ツングース語族の分布と概ね重なっています。先行研究では、石刃鏃文化が大陸や樺太からの植民によって始まったと考えられていました(高倉 2001)。
 しかし、最近の研究によると、北海道の石刃鏃文化は大規模な集団移住を伴わず、道東の縄文人が黒曜石の供給を通じて樺太から取り入れたものだとしています(福田 2015)。石刃鏃は青森県でも発見されていますが、この文化の中心は道北東部であり(杉浦 2001)、西日本にまで及んでいませんでした。
 また、当時の樺太にツングース語族が存在していたのかも不明です。

10-1-4:アイヌ民族は縄文時代から存在していたのか?
 アイヌ民族は、中世に形成されたと考えるのが一般的ですが(榎森 2015)、アイヌ語の形成はもっと古い時代に遡るでしょう。その証拠にアイヌ語地名は、アイヌ文化の南限を越えて広く分布していることが知られています。
 地名というものは、先住民の付けた名前が後世まで残りやすく、世界的に普遍的な現象と言えます。ギリシャのコリントスやミュケーナイなど、有名な古代都市が存在していた場所の地名は、非ギリシア語を話す先住民の言語に由来しています(クラーエ 1970)。また、非印欧語のバスク語は、現在こそフランスとスペインに挟まれた地域だけで話されていますが、かつてはこの限りではありません。バスク語と関連がある地名はイベリア半島に広く分布しているので、ケルト人などの印欧語族が侵入する以前は、バスク語と関連がある言語が話されていたと考えられています(ラペサ 2004)。そして、日本の東北地方にも同様の歴史的経緯がありました。
 アイヌ語研究の先駆者である金田一京助氏は、本州に分布するアイヌ語地名の南限を、白河の関までとしています(金田一 1932)。また、アイヌ語地名の現地調査を行ってきた山田秀三氏は、アイヌ語地名の濃い土地の南限を、太平洋側が宮城県の大崎平野まで、日本海側が山形県と秋田県の境までとしています(山田 1974)。両氏が主張する南限は、あくまで既知のアイヌ語地名の分布に対するものであり、(山田 1993・山田 1995)のように関東地方までアイヌ語地名の分布が及んでいることを示唆する研究もあります。
 このようにアイヌ語地名は、少なくとも東北地方の広い範囲に分布していることが、先行研究によって明らかにされています。当然ながら、東北地方にアイヌ語地名が存在しているのは、かつて同地でもアイヌ語が話されていたことに他なりません。東北地方では、古代末まで北海道系文化の影響が及んでいたので、その頃までアイヌ語が話されていた蓋然性が高いでしょう。このことは地名の存在以外にも、マタギ語に含まれているアイヌ語の語彙からも示唆されています。
 マタギとは、東北地方などで季節的な狩猟活動に従事している人々のことですが、彼らの言葉にはアイヌ語の語彙が含まれています。マタギ語の多くは日本語から派生したものであり、アイヌ語的な語彙は少数とされています(山田 1993)。そうした語彙は27語が知られていて、アイヌ語からマタギ語への借用は、音韻的特徴から古代に遡るようです。日本語のハ行は、古代から近世にかけて/*p/>/Φ/>/h/に変化しますが、マタギ語の/h/とアイヌ語の/p/ は対応しています。つまり日本語のハ行が/*p/だった古代に、アイヌ語からの借用があり、それが歴史的な音韻変化を経て/h/になったと考えられます(板橋 2014)。
 古代の東北地方には、アイヌ語を話す人々が住んでいたからこそ、アイヌ語地名が残り、マタギにもアイヌ語が借用されました。アイヌ語と日本語が古代に言語接触していた証拠は、他にも見出すことができます。
 アイヌ語で神は kamuy ですが、日本語でもかつては神を *kamui と発音していました(服部 2018)。その頃の日本語は、日本祖語や日琉祖語と呼ばれていて、おおよそ弥生時代末期から古墳時代にかけての日本語と考えられているようです(ペラール 2016)。kamuy と *kamui が似ているように、アイヌ語と日本語には類似した語彙が色々存在しています(中川 2003)。そうした語彙は、どちらかの言語に起源があり、もう一方が借用したことになります。神については、どちらに起源があるのかは分かりませんが、少なくとも日本語で *kamui と発音していた頃でなければ、この借用は起こり得ません。
 つまり古墳時代までには、アイヌ語と日本語は言語接触していたことになります。その頃の東北地方では、北部で北海道と同じ続縄文文化が広がり、南部では古墳文化が広がっていました(八木 2015)。前者の人々がアイヌ語を話していたことになりますが、彼らの言語は徐々に日本語へと置き換えられていきます。
 東北方言の多様性が、西日本の方言と比べて少ないことから、東北地方で日本語が話されるようになったのは、比較的新しい時代になってからだと考えられています。東北方言の祖語が、平安時代の中央語から派生していることからも、東北方言の新しさが示唆されています(井上 2000)。つまり古代末を境に、東北地方の言語がアイヌ語から日本語に置き換わったと考えても、不都合はありません。
 しかし、古代の東北地方でアイヌ語が話されていたのなら、そうした状況はいつの時代から続いていたのでしょうか。先述の通り、東北地方以南にもアイヌ語地名が分布していた場合、続縄文時代以降の北海道系文化との関係だけで考えることもできません。つまりそれ以前の時代から、東日本一帯でアイヌ語が話されていた可能性も考えられるでしょう。
 松本建速氏は、東北地方における縄文時代晩期末から続縄文時代の土器の連続性を根拠に、言語の置き換えはなかったとしています(松本 2018)。東北地方では、この間に水田稲作も行われていました。西日本の弥生土器からの影響を受けた土器も作られますが、製作技法は縄文土器的であり、西日本の弥生土器とは異なっています。このことから宮本一夫氏も、言語の置き換えをしない状態での文化受容だったとしています(宮本 2017)。つまり東北地方では、縄文時代に遡る頃からアイヌ語が話されていた可能性があります。
 著者は本章の最後に、「日本語が誕生した瞬間が日本民族の始まり(※」と述べていました。この考え方に立てば、アイヌ民族は縄文時代から存在していたことになるので、崎山氏の仮説はこの部分のみ正しいと言えます。
※本書288頁

参考文献
板橋義三「高句麗の地名から高句麗語と朝鮮語・日本語との史的関係をさぐる」『日本語系統論の現在』国際日本文化研究センター,2003
板橋義三『アイヌ語・日本語の形成過程の解明に向けての研究』現代図書,2014
伊藤英人「古代朝鮮半島諸言語に関する河野六郎説の整理と濊倭同系の可能性」『日本語「起源」論の歴史と展望』三省堂,2020
井上史雄『東北方言の変遷』秋山書店,2000
榎森進「歴史からみたアイヌ民族」『アイヌ民族否定論に抗する』河出書房新社,2015
長田夏樹「日本語北方起源説」『言語』3(1),大修館書店,1974
小野林太郎『増補改訂版 海の人類史:東南アジア・オセアニア海域の考古学』雄山閣,2018
片山一道『ポリネシア人:石器時代の遠洋航海者たち』同朋舎出版,1991
金田一京助「北奥地名考」『東洋語学乃研究:金沢博士還暦記念』三省堂,1932
崎山理『日本語「形成」論』三省堂,2017
杉浦重信「北辺の縄文文化」『新北海道の古代』1,北海道新聞社,2001
高倉純「石刃鏃文化」『新北海道の古代』1,北海道新聞社,2001
デイヴィッド・ライク『交雑する人類:古代DNAが解き明かす新サピエンス史』NHK出版,2018
トマ・ペラール「日琉祖語の分岐年代」『琉球諸語と古代日本語:日琉祖語の再建にむけて』くろしお出版,2016
中川裕「日本語とアイヌ語の史的関係」『日本語系統論の現在』国際日本文化研究センター,2003
服部四郎『日本祖語の再建』岩波書店,2018
ハンス・クラーエ『言語と先史時代』紀伊国屋書店,1970
福田正宏「道東の石刃鏃文化:縄文研究の切り口から」『季刊考古学』132,雄山閣,2015
松本建速『つくられたエミシ』同成社,2018
宮本一夫『東北アジアの初期農耕と弥生の起源』同成社,2017
八木光則「古墳時代併行期の北日本」『倭国の形成と東北』吉川弘文館,2015
山田秀三「アイヌ語族の居住範囲」『北方の古代文化』毎日新聞社,1974
山田秀三『東北・アイヌ語地名の研究』草風館,1993
山田秀三『アイヌ語地名の輪郭』草風館,1995
ラファエル・ラペサ『スペイン語の歴史』昭和堂,2004

あとがき

 表題の『日本人ルーツの謎を解く』を最初に読んだのは、今から6~7年前だったと思いますが、当初から酷いという感想しかありませんでした。この記事を書き始めた2020年は、この本が出版されてちょうど10周年目になります。この記事は、それに合わせて公開するつもりで書いていましたが、予想以上に時間がかかってしまい、執筆に1年以上を要してしまいました。
 この記事を書いた理由は、この本が未だに重版されていることを知って、非常に衝撃を受けたからです。だからこの本に対する反論を公開して、この本が社会に及ぼす悪影響を少しでも減らしたいと思いました。この本の著者は、極右メディアに出演したり、そうした講演会に登壇して自説を披露しているようです。インターネット上では、この本から影響を受けたと思われる言説が常に生産されていて、こんなデタラメ本でも影響力は決して小さくないと感じています。
 この記事は、基本的に『日本人ルーツの謎を解く』に対する反論を載せていますが、第九章で少し脱線して『日本の誕生:皇室と日本人のルーツ』の内容にも触れました。この本も相変わらず酷い内容ですが、特にアイヌ民族に対する否定的な言説が気になったので、このことには触れておく必要があると思いました。それを踏まえて、第十章では少し踏み込んだことを書いています。
 こんなに長い記事を書くのはもうこりごりですが、今後もnoteやYouTubeを使って情報発信できたら良いなと思っています。よろしくお願いします。

おわり


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