なぜ私は『Ukraine War Stories』の有志翻訳に参加したか:あるいは私はいかにして物語という病菌に対抗しようとしたか

「Ukraine War Stories」はロシアによるウクライナ侵攻を題材にしたビジュアルノベルADVです。あなたはロシア軍の占領下で暮らす市民として、兵士ではなく民間人として、極限状態に生きる彼らの現実を追体験することができます。
作品は3つのシナリオに分かれています。最初の戦場であるホストメリ、惨劇の都市ブチャ、そしてマリウポリでの決死の抵抗。愛する人とあなた自身を守り、安息の地へと脱出すること。それには勇気と知恵――そして、時には犠牲も必要となることでしょう。

『Ukraine War Stories』Steamストアページ

ロシアの作家トルストイは芸術ということばを使って、物語は感情の感染であると主張した。現代の諸科学は、奇しくも彼のその言葉が正しいことを示唆している。物語の語り部が人類史においてかなり初期の時代から社会において重要な役割を果たしてきたのは、物語の形式が生物としての人間の心に適合的であり、その内容が人間の信念や行動を制御しうることを、その社会に生きる人びとが経験的に理解していたからである。

物語のもつ感情の感染という性質は、歴史上しばしば(当時の支配的価値観にとって)奇怪な方向に世論を動かすことで、その当時の知識人や権力者たちを困惑させてきた。そのために、物語の危険性を理解した古代ギリシアの哲学者、原始キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒などは、しばしば自ら物語ることを拒絶し、社会の語り部に対してもそれを禁じようとした。私たちのもつ生物的な特性のために、あくまで空想にすぎない物語が、その観念的な性質によって現実を動かしうることに、彼らは深刻な懸念を呈した。

「ミメーシスの術を行う詩人もまた、各人の魂にそれぞれ悪しき国制を制作すると、私たちは言うべきだろうね、魂の愚かな部分の、より大きいかより小さいかも識別できず、同じものをときには大と思いときには小と思うような部分の機嫌をとり、真理からはるかに遠く離れて、影像作りをすることによってね」

プラトン『国家』

一方で、そのような禁止が長期的な視点でみればうまくいかなかったことは、今日の社会を見れば明らかである。私たちは日常生活において信じがたい量の情報を得ているが、そのほとんどは物語という形式をとっている。複雑で大容量の情報を処理することは、高度な社会を形成するうえでは必要不可欠であるが、物語はそれをその形式によって可能とする。ミメーシスの術を批判したプラトン自身でさえ、『国家』をはじめとする彼の多くの著作においては対話篇という物語の形式を採用せざるをえなかったことにも、私たちが物語の力から逃れることの難しさがよく現れている。物語を利用することなしに自らの主張を他者に伝達することは難しい。現代においてもそれは同じである。

あなたが「民主主義者であることと知識人であること」の複雑さと責任の大きさとを過小評価しているはずはありません。では文化の問題、具体的に文学の問題に関しても民主主義者であろうと思われますか。思っていらっしゃらないのではと推察します。私たちの敵 ── 真剣な文学の敵 ── のなかには、搾取的な消費文化を忌み嫌う私たちのような人間を「エリート主義者」と決めつけ、「民主主義者」の呼称は自分たちのものだと主張している人びとがいます。そこで私たちのなかで、政治的システムとしての民主主義への賛意と、文化のシステムへの疑念とは、どうしたら和解させられるのでしょう。

スーザン・ソンタグから大江健三郎への書簡

だが、それでもなお、ここでソンタグが問題にしているような、文化人としての社会的責任を放棄し、精神の自然な傾向を満たす物語を求める読み手を想定し、彼らに向けて物語を提出する描き手の存在は、現代の解決しなければならない問題のひとつであるはずである。なぜなら、客観を廃して主観的な美や正義、あるいは一般に人間性と称する素朴な直情に至上の価値を置くロマン主義や、世界から偶然を廃してすべての物事に道義的意味を見出す神秘主義、解決不能な善と悪の二元的対立によって世界を理解しようとする陰謀論などに代表されるように、この種の描き手と読み手の共謀は、架空の物語を世界の真実と誤認させ、観念的な道徳感覚を現実の道徳規範として内面化することによって共同体を退廃と分断の危機へと導くからである。

読者とは、書物の中でただ自分の精神の自然な傾向を満足させようとばかりするものであって、自分の中心的な興味に応えるように作家に要求し、自分の理想主義的な、陽気な、好色な、悲しげな、夢見がちな、あるいは実際的な想像力のお気に召す作品や一節を、変わることもなく見事だとか「よく書けている」と評価するのである。

ギ・ド・モーパッサン 『小説論』

わたしは一度「しばらく真面目になってみてはいかがでしょう」と提案した、真理は、苦い真理ですら、間接的にではあるが長い間には、真理の犠牲において共同体に奉仕しようとする思想よりも、共同体にとって役立つのであって、真理を否定する思想は実際には真の共同体の根柢を内側からこの上なく無気味に崩壊させるのだから、共同体の危機を深く憂慮する思想家は、共同体ではなく、真理を目標とした方がよいのではなかろうかということを、しばらく真面目に考えてみようと言ったのである。しかし、わたしは生涯においてこれほど完全になんの反響もなく黙殺された言葉を言ったことがない。

トマス・マン『ファウストゥス博士』

『Ukraine War Stories』(以下、UWS)の有志翻訳に参加しないか、という誘いをある人から受け取ったとき、私の頭にはまず以上の問題意識が浮かんでいた。UWSは、それがいくら現実の出来事を元にしていたとしても、それ自体はゲームであり、フィクションであることから逃れることはできない。にもかかわらず、物語の形式の持つ感情的な価値は、その煽情的な内容と最近の時事事件との関連によって物語の形式と現実そのものとをが誤認されることによって増幅され、その価値は現実の事件に対する私たちの信念の体系に影響を及ぼすことになるだろう。UWSのリリースが完全なる善意に基づいていようと、UWSという語りそのものがきわめて重大な危険を孕んでいる。

シュテール夫人は亡きヨアヒムの遺骸を見て、感激して泣いた。「英雄ですわ! 英雄でしたわ!」と彼女はいくどもさけび、埋葬式にはベートーベンの「エロティカ」を演奏しなくてはならないと要求した。
「あなたは黙ってらっしゃい!」とセテムブリーニが横から叱りつけた。

トマス・マン『魔の谷』

有志翻訳チームの一員として、私はUWSに関わった人間すべてに倫理的責任があると考えている。それはゲーム自体を作った人びともそうであるし、それが無償で行われているにせよ、有志翻訳のメンバーにもある。なぜなら翻訳も言葉を操るという意味で創作芸術のいち形態であり、それゆえにその作業には高度な文化的専門性とともに、現実に対する倫理的責任がのしかかるからである。上で述べたように、物語が本質的に人間の信念を操作するプロパガンダとしての性質を持つ以上、昨今の情勢では、UWSにおいて描かれた物語のもつプロパガンダ的特徴が、人びとのもつ信念の体系に誤った形の転化をうながしうることを理解しないわけにはいかない。

中佐はそこではじめて、たいていの人間が自覚せずに終わってしまうことを自覚した ――彼が残酷な運命の犠牲者であるだけでなく、その残酷な運命のいちばん残酷な手先のひとりでもあることを。

カート・ヴォネガット『タイタンの妖女』

翻訳の難しい点は、その行為が、翻訳者が最終的な読み手に物語を伝えるという描き手の役割の一面を持つと同時に、その創作にあたって原文を無視することはできないという読み手の役割の一面を持つことである。もし私が原作を無視し、あるいは原作に対する真摯さを喪えば、それはUWSというよりむしろ私の作品となってしまうだろう。

私はここでソンタグの書簡を思い起こす。できうる限り原文に忠実に訳すことは、翻訳における一つの形として間違っていないことは確かである。しかしながら、それはある社会における共同体の構成員として正しくあることを必ずしも意味しない。翻訳者は、彼に課せられた倫理的責任を直視しなければならないはずである。彼がただ原文に忠実に訳したという事実にのみ注目することによって、彼の責任を、物語を描くうえで生じるすべての倫理的責任を、原文の描き手に転嫁しようとすることは不当である。

「僕は、自分が何千という人間の死に間接に同意していたということ、不可避的にそういう死を引起すものであった行為や原理を善と認めることによって、その死を挑発さえもしていたということを知った」

アルベール・カミュ『ペスト』

残念なことではあるが、有志翻訳チームの全員がこの前提を共有していたわけではないだろう。私たちのチームは短い準備期間のあいだに、そこまで互いに多くのコミュニケーションをとりあうことができなかったからである。それでも、私と少なくとも一人の有志翻訳者は、この前提を共有した上で、物語の形式において必要以上に煽情的であると考えられる部分においては、できうる限りの謙抑的な翻訳を心掛けた。それでも私たちの作業が十分であったとは思わない(もし物語の毒を廃するなら、物語を退屈なものにするしかないが、翻訳者にそこまでの権利があるのかは分からないし、そもそもそうするべきなのか、それが可能であるのかも分からない)。さらには、作業が終了した今、多くの課題が投げかけられたと思っている。

その課題の大きな部分は、これまで私が、あるいは私たちの社会が経験したことのない方法でのゲームを利用した巧妙なプロパガンダが可能であると示唆されたことに由来する。そのもそもUWSは、十分な開発期間を取れていたわけでもないし、それゆえに、ADVというジャンルとしてそれほど良くできているわけでもない。にもかかわらず、このゲームは当初想定されていたよりもはるかに多くの反響をもたらしたのである。これは、私が望もうが望むまいが、ゲームという一つのソフトパワーが近い将来、文化の対立やイデオロギーの宣伝工作において、これまでより顕著な形で利用されるようになることを意味している。はたして今回、インタラクティブなゲームメディアをふくむゲームコミュニティーは、UWSが描いた物語にどれだけ真剣に対応できていたのだろうかという点について、私は暗い観測をすることしかできない。私たちの行動の動機がゲームのもつ時事性や話題性、あるいは私たち自身の無垢な好奇心や正義感、承認欲求や商業主義によってのみ動かされているとしたら、ゲーム芸術の世界は自らが対象にするゲームという物語の本質を、現代文学や現代美術などの現代芸術、あるいは真理にのみに至上の価値をおく科学の分野ほどには理解できていないということになるし、それを適切に発信し、あるいは受け止める準備もできていないということになるだろう、と考えざるをえない(前にあげた諸分野は、ゆうに数世紀を超えるその歴史の中で、物語のもつ危険性に少なくとも真剣に向き合ってきた)。そしてそのような批判は、今に始まったことではない。

「Spec Ops: The Line」はどうあがいても地獄への片道切符であるため、プレイヤーが反抗できるとしたらコントローラーを置くことくらいである。ただ、プレイヤーが暴力的であるものをひたすらに求めていると言われると、いまひとつ納得がいかない。確かにコントローラーやマウスを通じて残虐行為をしているのはプレイヤーそのものだが、それがプレイヤーだけの意思であると言われるのは心外だ。「Undertale」でもGルートへたどり着くとプレイヤーの残酷さを非難されるが、本当にプレイヤーだけの問題なのだろうか? そういえば、「BioShock」でも同じことを感じる場面があった。「BioShock」の主人公は「恐縮だが(Would You Kindly)」という言葉を聞くと命令に従ってしまうという性質を持っており、物語の中盤までまるで奴隷のように悪役に操られて進むことになる。そしてこれはプレイヤーにとっても同じであり、“ゲームをプレイしているように思わせているが、実際はゲームをプレイさせられているのだ”と匂わせる場面がある。「人は選ぶ、奴隷は従う」というのは「BioShock」の重要人物であるアンドリュー・ライアンの言葉である。とはいえゲームプレイヤーは望んで制作者の意図に乗っているのだし、むしろそこに乗らなかったら作り手側も困るのではなかろうか。プレイヤーが心から虐殺を望んでいて、殺せるものをすべて殺したのだとしたら残酷かもしれない。しかし、殺せるように誘導しているのはゲーム側もそうである。しかも殺したあとにはストーリーや新たな展開、そしてエンディングなどご褒美があるのだ。これはもはやフェアではなく、共犯関係と言ったほうが適切であるように感じられる。

第四の壁を越えようとした名作ゲームたち――メタフィクションとして語られるゲームプレイヤーという存在

だが一方で、このような重大な倫理的責任を描き手に一般に求めることは、たとえ観念的な意義において正当であるにしても、現実的な実践において正当といえるのだろうか? 実際には、今回UWSの制作チームが、そして私たちがそうであったように、すべての描き手に対して、彼らが自ら描いた物語に対する責任を求めることは非現実的である。もしそうではないと考えるならば、それは単に物語の持つ力、それも人の心に適応した物語の力を軽視しているということになる。なぜなら、自ら社会に広く敷衍されることを求める文化的正義は、人間の現実的な心性、人間性に十分な配慮を行ってはいないので、これを敷衍させようとする試みは人間の本性からの強い反発を受けるからである。

「僕は確実な知識によって知っているんだが(そうなんだ、リウー、僕は人生についてすべてを知り尽くしている、それは君の目にも明らかだろう)、誰でもめいめい自分のうちにペストを持っているんだ。なぜかといえば、誰一人、まったくこの世に誰一人、その病毒を免れているものはないからだ。そうして、ひっきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、ほかものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。自然なものというのは、病菌なのだ。そのほかのもの――健康とか無傷とか、なんなら清浄といってもいいが、そういうものは意志の結果で、しかもその意志は決してゆるめてはならないのだ。りっぱな人間、つまりほとんど誰にも病毒を感染させない人間とは、できるだけ気をゆるめない人間のことだ。しかも、そのためにはそれこそよっぽどの意志と緊張とをもって、決して気をゆるめないようにしていなければならんのだ。実際、リウー、ずいぶん疲れることだよ、ペスト患者であるということは。しかし、ペスト患者になるまいとすることは、まだもっと疲れることだ」

アルベール・カミュ『ペスト』

文化の超自我も人間の心の構成という事実に十分に配慮せずに命令するだけで、人間がその命令に従うことができるかどうかは、考えてみようともしないのである。超自我は、人間の自我は、命じられたことは心のプロセスとして何でも実行できるし、自我は自分のエスに無制限な支配を及ぼすことができることを前提としているのである。しかしこれは間違った考え方であり、いわゆる正常な人間においても、エスを無制限に支配することはできないのである。もしもエスを無制限に支配するように求めるならば、個々の人間は反抗するか、神経症になるか、それとも不幸になるしかないのである。(中略)しかし文化はこうしたすべての状況を無視してしまう。命令にしたがうのが困難であればあるほど、その命令を実行した者は称賛に値すると訴えるだけなのである。

ジークムント・フロイト『文化への不満』

したがって私は、それ自体が我々が棄却するべき、我々が生きる現実を無視した物語であるという理由から、それが解決すべき問題であることを認めながらも、問題への解決策を普遍的な文化的正義の俎上に載せるべきだとは考えない。問題に明確で詳細な解決策を与えることは、却って問題を悪化させてしまう危険があるからである。私はあくまで、考えるべき問題が「安易な物語を拒絶してもなお避けられない物語(たとえばUWSのような)に直面した時に私はいかように振舞うべきか」ということにあり、それに対して「物語の毒が危険なものであると考えられるなら考えられるほど、私はより積極的に、語られた物語に関わなければならない」と主張するのみである。私はこの問題の解決に対する具体的な解決策を未だ持ちえていない。

その上で、私はもしこの問題が肯定的な方向に解決される場合があるとすれば、それは物語の安易な受容に対する個々人の抵抗の集合によってのみ起こりうるものであろうと信じる。少なくとも私にとって、このことは人生をかけて取り組む価値があるように思われるのである。

「ですが、この問題が僕の内部で解決することがありうるでしょうか? 肯定的なほうに解決されることが?」なおも説明しがたい微笑をうかべて長老を見つめながら、イワンは異様な質問をつづけた。
「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです。ですが、こういう悩みを苦しむことのできる崇高な心を授けたもうた造物主に感謝なさりませ。「高きを思い、高きを求めよ、われらの住む家は天上にあればこそ」です。ねがわくば、あなたがまだこの地上にいる間に、心の解決を得られますように。そして神があなたの道を祝福なさいますよう!」

フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』


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