沢木耕太郎の深夜特急を読んだ
羨ましい。こんな旅がしたかった。
そう思った。読んでいる間中そう思った。
私は読書が結構好きで、でも読んだ後アウトプットすることは今までほとんどない。アマゾンレビューに感想を書いたことはある。
だがそれより多いのは、レビューを読んで、自分と似た感想を見つけて満足することだ。それである程度楽しかった。
だか今回この本を読んでいる間、誰の感想も聞きたくないと思った。普段なら面白かった本を読み終えた後、誰かの評価やレビューを探し回るのである。それを読むのは面白い。そうそう、とうなずきながら何か満たされる。
沢木耕太郎さんの「深夜特急」は、kindle本でたまたま見つけて、職場の昼休みの暇つぶしにと買って読んだ。値段もたしか100円くらいでお手頃だったし、レビューの星も多いようだ。タイトルも表紙も気に入った。
読み始めた。面白い。
暇つぶしと言ってはもったいない。まさに自分が旅に出ている気分になった。
こんなに本の世界に努力せず入っていけるのは久しぶりのような気がした。
自分は地理音痴なので、旅の今どのへんなのか、挿絵の地図をたまに見返しながら読む。何かこう、インドのデリーからイギリスのロンドンまで、鉄道は使わずバスで旅するといった趣旨の旅だったように思う。旅の始まりは何らかの事情で香港だったと思う。
香港でもう、私は一緒に旅に出ていた。「黄金宮殿(ゴールデンパレス)」という名前の安い宿に泊まっている。窓から薄暗い明りの入る、高層ビルの部屋から、隣近所の人々の部屋の窓が見える、暮らしの様子が見える。
何やら市場をうろうろする。お祭りのような熱気と活気が毎日ある。
夜外にいる子供と遊ぶ、話す。
漢字を書いて筆談をし、人々と話をする。
出会った人の食卓に招かれる。
沢木さん25歳のころの旅行記だとか。
若さという言葉で済ませたら失礼かもしれないけれど、この行動力と好奇心、本当に羨ましくまぶしく思った。そして楽しい。
ただ旅行に行くだけではこういった夢中になれる文は書けない。好奇心もさりながら、大胆さと節度と良心も持ち合わせている。そして観察眼、洞察力を感じる。
私は、まず一人で堂々と異国の食堂に入れるか、いや入れない。沢木さんは入る。そして近くの人の料理をみて、「あれを同じものを」と言える。目が合えば、話せそうな気配を感じれば笑って挨拶をする。そして話が始まる。家においでよなどと言われる。
毎回このようなドラマではないにしても、こういう出会いの広がり方が実に豊かに描かれている。
自分はこんなことはできないのである。
近所の人にあいさつをするのが精いっぱいで、「今挨拶のタイミングじゃなかったかな…」「なんか反応悪かったな…」そんなことを延々と考えている。話も広がらない。ママ友もいない。昼休み同僚と話を続けられないし続けたくないからkindleで本を読んでいる。
そんな自分でも、「自分」を忘れて没入できた。楽しいと思った。ただ旅を楽しめた。これは、筆者の人柄が成せることだと思う。
沢木さんの持っている良心に救われもした。
インドで10歳そこらの少女を買わないかといわれる場面がある。少女売春だと思う。そこで真っ当に嫌悪感を持てる人であった。
それに表れるような良心に、安心して読み進められた。
どうも男性作家の文では、女性に対して、追ったり評価したり、同じ人間として見られていない感じが多く、ストレスだったりするのだけど、それがほとんどなかった。そこが私としては大変良かった。
またそういう時、なぜだか救われたような気持になるのだった。ああ人として見てもらえた、というような。
シリーズはkindleでは全6巻あった。あとがきで1幕~3幕とあったので、単行本では3冊出ているのかもしれない(わかりませんが)。
旅のすべてが、始まりの香港のように、好奇心いっぱいにわくわくしたものではなかった。中盤から終盤にかけて、気持ちが浮き沈みする。その描写も、実に自然だった。私も一緒に浮き沈みしつつ、旅をした。
インドで火葬場を見に行く場面があった。泊まっている宿で働いている少年に場所を聞いて、案内してもらう。長い間、しばらく眺めている。少年もいっしょにその場にいる。たくさんの「死」を見送る。気が済んで、帰ろうとする。少年はほっとした顔を浮かべる。
こういう体験が羨ましい。好奇心のまま行動する、案内してくれる人がいる、心が満足するまで続ける、待ってくれる人がいる。
そういうことを、堂々とできる人に私はなりたかったんだと思う。
そういう「冒険心」みたいなものを満たしてくれる本でもあった。自分は20代じゃない、既婚で女で、同じ体験はできない。それはやろうと思えばやれる人がいるのはわかる。ただ相当ハードルが高い。
そんなことをどこかで思いながらも、ただ沢木さんになったような気持ちで読んだ。
ぼったくられそうになる。怒鳴って抗議する。値切る。言い方を変え、粘り強く値切る。そのやりとりを楽しんだり、ときに自分に嫌悪したりする。
そのやり取りを、私も野次馬なのか本人なのか、その場にいるように楽しんだ。応援した。
イランのテヘランという街で、知り合いの「イソザキさん」を探すくだりも興味深かった。テヘランという場所と何日まで滞在ということだけ母親から知らされており、ホテルの名前はわからない。その中からどうにか探して出会いたい。
まず日本人が多そうなホテルにあたりをつけてフロントに聞く。「いる」といったホテルに行くと、近い名字の別人だった。
そこでホテル・リストを見て片っ端から電話する。奇跡的に最初のホテルで連絡を取ることができる。
この出来事からして、生きてるなあ、と思う。頭と体を使って生きているのだ。今ならスマートフォンがあるのですぐに解決する話である。この話にはガラケーも出てこない。ホテルに聞いても個人情報を教えてくれない気がする。そういう時代なのだなと思った。とても羨ましい話だ。トラブルは多そうだけど、それに対応する胆力がつくし、自分の頭で、自分の人生を生きている感じがする。
我々はすべてがスムーズに進めるために生きているのではないものな。
旅の終わりは、ドラマチックというよりは、まだ人生は続くんだなというような、ニヤリとするようなものだった。
全部読んだ。とても面白かった。
なぜだか、読み終わったら誰かの感想を読まずに、書こうと決めていた。自分には珍しく、その通り書くことにした。
この旅を通した、一次情報の、誰かの生の熱量にあてられたのかもしれない。
私は沢木さんのような旅をすることはできない。でも何だろう、本を通して旅をしたような気持ちにもなり、これから香港とか、デリーとか、少し知っている場所のような気持ちになる気がする。
そしてもしかしたら、自分の心に従って動くことは、羨ましい気持ちを昇華する方法なのかなと思う。
この素晴らしい本がどういう評価を受けているのかは知らない。
私は私の人生を続けたい。
拙い文章ですが、これでおしまい。