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二十年の片思い 42

 42.
 白鷺大学キャンパスの校門をくぐり、銀杏並木にさしかかると、前を歩く大野と見知らぬ女は、噴水広場の前で、女のほうが名残惜しそうに大野から腕を離すと、美しい笑顔を残して、経済学部棟、商学部棟、法学部棟がある右へ曲がり、消えた。大野は女にやさしい微笑みを返し、普段どおり、文学部棟のある左へ曲がった。その光景がまた、楓の胸を痛めつけた。
「よし、別れたぞ。行くぞ、タカ」
「おう、カタ」
 片山と高村は、大野が一人になるや、走り出した。
「ほら、秋山婦警も早く」
「は、はい」
 片山の大きな声にはっとなり、反射的につられるように走り出そうとしたが、足ががくがく震えて、身体が前によろめいて、転んでしまった。
「大丈夫?」
 片山と高村が振り返って、戻ってきた。楓は、すりむいて少し血の出た手と、思い切り打って痛い膝を堪えながら、なんとか立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、今度は尻もちをついてしまった。想像以上に精神的ダメージは大きかったらしい。視界の先には、大野が長い足で悠然と歩き、遠ざかってゆくのが見えた。「待って。待ってよ、大野くん。さっきの女(ひと)は誰なの?」心が勝手に叫んでいた。
「秋山さん、大丈夫?」
「秋山さん、立てる?」
 大きな声にはっと気づくと、片山と高村の心配そうな顔が目の前にあった。びくっとして、路面に手をついて立ち上がろうとすると、やはり足に力が入らなかった。
「つかまって」
 日焼けの残る腕が目の前に出された。九月も終わるというのに、高村はまだ半袖を着ていた。楓は触れることに抵抗があり、なんとか自力で立とうとしたがやはり立てなかった。次の瞬間、楓はふわりと宙に舞ったかと思うと、高村の腕に抱きかかえられていた。男子学生に触れた、触れられた、そんなことは今まで、演劇サークルの市村に触れられた一度だけしかなかった。それが今、触れられる、などを遙かに超越して、抱きかかえられていた。恥ずかしさと戸惑いと緊張で、楓は声も出なかった。
「足、怪我したの?」
 どきっとした。高村の顔がかなり近くに、そのまっすぐな視線がかなり近くに迫っていた。市村ほどではないにせよ──もっとも、市村のような絶世的は美貌の男性など、そうはいるものではないが──高村も整った顔立ちをしていた。
「秋山さーん。意識ありますかー?」
 今度は片山の手のひらが、目の前で振られていた。
「あ……」
 楓はようやく声が出た。だが、返すべき言葉が何も思いつかなかった。
「意識戻った?大丈夫?」
「あ……だいじょうぶ……」
 片山の声のほうが安心でき、楓はようやく声を発した。
「足、怪我してない?」
 高村は、癖とはいえ、あまりにもまっすぐ目を見すぎた。距離が近すぎて、楓は思わず目を逸らした。これではかえって緊張して、身体が硬直し、鼓動が大きくなる。
「だ、だいじょうぶ……」
 楓はそれだけ言うのがやっとだった。周りを通り過ぎる学生たちがこちらを注目する。恥ずかしかった。下ろしてほしかった。
「医務室で診てもらったほうがよくない?」
 高村は周りの視線を気にすることなく、聞いてくる。高村の声を聞くと、まっすぐ目を見られてしまうという緊張に襲われ、楓はさらに目を逸らした。すると視線の先に、大野が文学部棟の扉を開けて、中へ入ってゆくのが見えた。「待って。待ってよ、大野くん」心が勝手に叫んでいた。
「秋山さーん。意識、大丈夫ですかー?」
 片山の声にはっとなった。
「だ、だいじょうぶ……」
「足、大丈夫?医務室行かなくて平気?」
「だ、だいじょうぶ……」
「ほんとに大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ……」
 片山も心配そうに、目をぱちくりさせて聞いてくるのだが、童顔が楓を安心させ、どうにか答えることができた。
「時間ないからさ。このまま教室行くね」
 高いは少し冷ややかな声で、だが、とんでもないことを言った。
「秋山さん。気にしなくていいよ。俺たちは『しりとりレスキュー隊』だから。歩けなくなった人を見捨てたりはしないよ。タカ隊員は力持ちだから、安心して」
 片山もとんでもないことを言う。
「別に、投げ捨てたりしないからさ」
 高村の声のトーンがさっきよりも下がり、口調もより冷ややかになった。それきり高村は黙った。冷たくするなら、こんなことしなければいいのに。みんなが見ている。恥ずかしい。「下ろしてください」と言ってみようか。だが、最初よりも揺れが激しくなった。高村の歩き方が早足になったのだ。今言ったら、本当に投げ捨てられてしまいそうだ。高村は、怖い。
 楓は自分のことばかりを考え、二人の親切心を全く理解していなかった。転んで立てなくなった楓に、腕を差し出してくれた高村の親切を、それでも立てない様子を見た高村が心配して、抱きかかえて医務室へ運んでくれようとした親切を、呆然とする楓を心配して、必死で声がけをしてくれている片山の親切を、辞書が二冊と厚い教科書と厚いバインダーが入った、楓の体重よりも重そうなカバンを、片山が持ってくれている親切を、楓は全く気づきもしなかった。それどころか、揺れが激しくなる高村の腕の中で、「大野くんだったらいいのに。大野くんだったらもっとやさしくて、最高なのに」と心の奥で、身勝手なことを願っていた。
 文学部棟に入り、教室の扉が見えてきた。楓はようやく安心した。ところが、片山が扉を開けたと同時に、中から三人の男子学生が出てきた。楓はびくっとした。楓を馬鹿にするあの三人組だった。三人は予想もしなかった光景に驚くとともに、高村に好奇の目を向けた。
「お前、子連れ通学かよ」
「うるせえよ」
 城之内の嘲笑とからかい声に、高村は不機嫌そうに答えた。
「隠し子がいたのかよ。この色男」
「うるせえんだよ」
 二人目の水戸には、高村は怖い口調で答えた。楓はびくっとなった。
「似てねえ親子だな。パパに似れば美人だったのにな」
「だから、うるせえんだよ。転んで歩けねえとか言うから、連れてきただけだ。文句あんのか」
 三人目の手塚には、高村は完全に喧嘩口調となった。楓は怖さと恥ずかしさで、身が縮みそうだった。
「悪い」
 手塚も高村を恐れたのか、怯えたような目をして謝っていた。
「まあまあまあ、俺たちはお助けコンビ、レスキューよ、レスキュー。タカが担架で俺は荷物。秋山さんが転んで動けなくなったからさ。親切第一、『タカカタ、カタタカ、しりとりレスキュー隊』よ。さ、通してください。通してください」
 片山がうまく取りなすと、三人は道を開けた。楓はそのまま教室内に運ばれた。さらにクラスメイトたちの目が一斉にこちらを向いた。楓は恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にして目をぎゅっとつぶった。
「ピーポーピーポー、救急車、通ります。開けてください。開けてください」
 片山が大きな声で言った。楓は泣きたくなった。
「どうしたの?楓」
「倒れたの?大丈夫なの?」
 花枝と美咲の声がする。
「椅子、出して」
 頭上で、高村の命ずる声がする。ガタガタと椅子が出される音がする。
「座れる?」
 不機嫌そうな高村の声がする。
「座れんのか!って、聞いてるんだけど」
 びくっとして目を開けた。高村は、最初に怒鳴り、最後は冷ややかな静かな声で言った。
「す、座れます……」
 楓はそう答えるのが精一杯だった。
「下ろします」
 高村は事務的な声で言うと、楓をそっと椅子の上に下ろして、座らせた。楓は怖さと恥ずかしさで、顔を上げることができず、背を丸めて下を向いた。高村は席には着かず、そのまま苛立った足取りで教室を出ていった。片山が後を追った。
「タカ隊員、まあ、落ち着けよ。秋山さんは……」
「投げ捨ててやろうかと思った。ありがとうの一言も言えねえのかよ」
「秋山さんは、超お嬢様育ちなんじゃないのか?小中高一貫して、女子だけのカトリック系の学校だったとか……だから、免疫がないんだよ」
「免疫がないのはわかるけどさ。なんていうか、人として、どうかと思うけどな」
「俺もちょっと思ったけど……秋山さん、お前に惚れたんじゃねえのか?すっげえ真っ赤な顔してたぞ」
「やめろ。あり得ねえ」
「免疫たっぷりの女子でも、お前にお姫様抱っこなんかされたら、イチコロで惚れるかもな。お前も何気に色男だからな」
「そんなことはどうでもいい。ただ俺は、昔……小学校一年の、暑い夏だった。道で具合が悪そうにしゃがみ込んでいるおばあちゃんがいたのに、早く帰って冷たいかき氷が食いたいばっかりに、無視して通り過ぎてしまった。家でかき氷を食ってると、救急車の音がして、自分が歩いてきた道で、家から五十メートルぐらいのところで、止まった。あのおばあちゃんだと思った。死んだらどうしよう、自分が声をかけなかったせいだと、その時すごい罪悪感に襲われて後悔して……それ以来、具合の悪い人を見ると、放っておけなくなって……」
「ああ、あるよな、そういうの。ま、たまたま今日は相手が悪かっただけだよ」
「余計なお世話と言われればそれまでなんだけど、何も見返りを期待しているわけじゃないけど、あそこまで徹底無視されると頭に来て」
「忘れろ。それより、大野だよ。そもそも、あいつの事情聴取が目的だったんだ。むかつく感情をいつまでも引きずってねえで、楽しいこと考えようぜ。大野にも明るい春がやって来たんだ。喜んでからかってやろうぜ」
「そうだな。お前はほんとに、前向きなやつだな」

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