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二十年の片想い 43

 43.
「楓。大丈夫なの?転んで倒れて動けなくなったって……どこか強く打ったの?」
「楓。まさか、頭打ったわけじゃないよね。医務室行かなくて大丈夫なの?」
「楓。どうしたの?まだ具合悪いの?貧血なの?」
「横になってたほうがいいんじゃない?もっと椅子を並べて……」
 花枝と美咲が口々に騒ぎ立てている。高い声がきんきんと頭に響く。教室中がざわめいている。みんながこっちを見ている。恥ずかしい。
「落ち着くまで、そっとしておいてあげたほうがいいんじゃないかな」
 大野の声だ。やはり落ち着く。癒される。安心する。ちゃんと待っていてくれた。
「でも、二人と一緒でよかったよね。素晴らしいレスキュー隊コンビじゃない?」
「高村くん、すごい紳士的だよね」
 大野の声に説得力があったのか、花枝と美咲の声は静かになった。教室はまだ騒がしい。
「おんぶならぬ、お姫様抱っこだよ。楓、具合が悪いのにこう言っちゃ何だけど、いい思いしたじゃん」
 花枝は何を言い出すのだろう。こんなに恥ずかしいのに。
「『愛と青春の旅立ち』の最後みたいじゃない?ギア様が迎えに来てくれて」
「お望みなら迎えに行くよ。家まででも駅まででも」
 せっかくの大野のやさしい声は、美咲に向けられてしまった。美咲の話はよくわからないが、大野は、新しい彼女ができたのに、美咲の望みなら叶えてあげたいの
だろうか。
「じゃあ、あたし、駅から教室まで予約しようかな。大野くんになら抱かれてみたいよ」
 なぜか花枝が横から口出しをする。花枝がなぜ大野に抱っこされたいのだろう。
「浮気者だね。ほんとにそのままさらっちゃうよ」
 意味はわからないが、大野も花枝の話に乗っている。
「噂をすれば、ギア様が戻ってきたよ」
 びくっとした。「ぎあさま」というのは、高村のことを言うらしい。怖い。顔を見ることはできない。
「いよっ。かっこいいぞ。子連れ狼」
 びくっとした。またあの城之内だ。また「子供」と言われる。情けない。
「ああ、そんな髪型も似合うかもな」
 高村はさっきとは打って変わって、いつもの声に戻っていた。それと同時に、教室中に笑いが起こった。自分が笑われている。子供のような髪型を笑われているのだろうか。恥ずかしい。
「チャン」
 片山が謎の声をあげた。また笑いが起こった。
「お前を似合うかもな。髪、剃ってやってもいいぞ」
 高村が言うと、三度目の笑いが起こった。はげ頭が、片山と私に似合うというのだろうか。転んで、立ち上がれなくなって、抱っこされて、みんなに見られて、冷たくされて、そしてクラスみんなに笑われて。せっかく新しい自分に生まれ変わろうと思ったのに、これでは昔と同じだ。情けない。
「楓。気にすることないよ。楓がかわいいって言ってるみたいなもんだよ」
 花枝が明るい声で、下手ななぐさめを言ってくれる。
「まだ具合悪いの?貧血が治まらないの?」
 美咲はやさしく聞いてくれる。
「楓。ずっと下向いて黙ってたらわかんないよ」
「楓。貧血で倒れたの?それとも、何かにつまづいて転んだの?」
 転んだ原因は、大野が新しい彼女と腕を組んで歩く姿を目撃したショックのため。いや、違う。違う。違う。関係ない。とにかく、よろめいて転んだのだ。
「さあ、色男、大野誠治さん。白状してもらいましょうか」
 びくっとした。こちらに戻ってきた片山が、大野に聞こうとしている。片山は、私を無視して、脇を通り過ぎていった。
「ネタはあがってんだよ。ばっちり見させてもらったからな。カタと一緒にな」
 さらにびくっとした。だが高村も、私を無視して、脇を通り過ぎていった。
「そうそう、なんで昨日と同じ服なのかなって、気になってたんだよ。何かあったの?」
 噂話の好きな花枝が、興味津々に大野に聞く。大野の答えを、聞きたくないような、聞きたいような、複雑な気分だ。関係ないけど、関係ないなら、聞いても構わないか。
「ああ、別に大したことじゃないよ」
 大野はいつもと変わらぬ落ち着いた声で、曖昧な答えをした。
「何も隠すことねえだろ。めでたいことだろ」
「なかなかの美人じゃねえか」
「え?なになに?新しい彼女ができたの?」
 その言葉を直接聞かされると、花枝の高い声が、胸にぐさっと刺さった。
「そうなんだ……おめでとう」
 美咲は控えめな声で言った。大野をふって、別な男とつきあっていることを、後ろめたく思っているのだろうか。
「ありがとう」
 大野は美咲に向かって一言、静かに言った。おそらく、美咲の目を見ているのだろう。
「何を騒いでいる。時間だぞ」
 教授の声にはっと気づいた。机の上に何も出していない。
 楓は脇に置いてあるカバンから、慌てて教科書、辞書、厚いバインダー、筆記用具を取り出して、机の上に広げた。
 楓は愚かなことに、全く気づいていない。心配する友達を無視して、黙り込んで下を向いていることが、五人との間に自然に距離を作っていることを。いくら恥ずかしかったとはいえ、高村と片山に「助けてくれて、ほんとにありがとう」と一言言えば、二人の印象も変わったはずだ。花枝と美咲に、そして大野に、「心配かけてごめんね。ちょっと転んじゃって、二人に助けてもらって。でももう、大丈夫だから」と言えば、三人の印象も変わったはずだ。成長したいのであれば、ただ明るい笑顔を作ってはきはきと「おはよう」と言っただけではダメなのだ。他人を思いやる気持ちが、他人に感謝する気持ちが、何よりも大切なのだ。会話についていけないのであれば、ついていけるように、テレビや新聞、雑誌などを見て情報を得る、曲のタイトルや歌手名を覚えて、実際にその歌を聴いてみる、映画のタイトルを覚えて、実際に映画館に足を運んで観てみる、本のタイトルと著者名を覚えて、実際に読んでみる、自分でもいろんな本を読み、テレビや映画を観て、音楽を聴いて、感想を持つ、など、いくらでも努力することができるはずだ。新しい自分に生まれ変わりたいのであれば、真面目に予習復習ばかりをするのではなく、外にアンテナを向けて、自分に刺激を与えて、興味のあるものを見つけて、自分の感性を豊かにして、自分を表現する術を身につける。そんな努力が、楓には何一つできなかった。

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