- 運営しているクリエイター
記事一覧
二十年の片想い 40
40.
楓は、演劇棟内の洗面所の大きな鏡に見入っていた。これまでは鏡で自分の顔を見ることが嫌いだったが、今日は違う。市村が褒めてくれたのだ。
「かわいい、かわいい?ふふっ」
楓は鏡に向かって小さく独り言を言うと、嬉しくて一人で笑った。火照った顔を冷たい水で何度も洗ったが、熱が引くことはなく、赤いままだ。青白くて嫌いだった肌が、赤くなることによって、本当にかわいくなったような気がした。唇に指を
二十年の片想い 39
39.
「今、監督が言ったことを忘れずに、きちんと守るようにね」
内野が出ていって二人だけとなった「舞台の間」の室内で、市村は楓に確認するように、努めてやさしく言った。
「はい。わかりました」
先ほどと同じ返事をするが、内野を見る目とはまるで違っていた。怯えて泳いでいた目がまっすぐこちらを見て、途端に輝き出した。青ざめていた顔も、瞬時に赤くなった。声にも張りがあるのだが、内野が感じていたよう
二十年の片想い 38
38.
白鷺大学演劇サークル「はばたき」のための棟、通称「演劇棟」の中の一室、「舞台の間」と呼ばれる広い部屋には、一年生部員の秋山楓、四年生で監督を務める内野雅樹、そして同じく四年の、主演を務める市村雅哉がいた。
たった今、家政婦マリーの告白シーンの稽古が終わったところだ。
「立てる?」
市村は、おもしろいように真っ赤に照れて、足ががくがく震えている、ウブで世間知らずの楓の手をとり、やさし
二十年の片想い 37
37.
楓の頭の中に、大野のあの声が、美咲に告白したあの言葉が響いた。
「はい」
無意識のうちに、楓は市村の問いに対し、はっきりと返事をしていた。市村は続ける。
「そんなある日、フランソワと二人きりになる機会がふいに訪れた。胸の奥に押し込んでおいた熱い想いが、抑えきれずにあふれ出てしまった。赤いハートの形をした厳重な宝石箱の鎖がちぎれ、鍵が壊れてふたが開き、中にしまっておいた、愛という名の大
二十年の片想い 36
36.
通称「演劇棟」と呼ばれるサークル第二棟の一室、「舞台の間」の中で、稽古は続いている。家政婦のマリーが若旦那フランソワに、胸に秘めてきた想いを告白するシーンだ。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
市村に微笑まれた楓は、顔が熱くなるのを感じながら台詞を言った。
「あとは頼んだよ」
市村の声が、それまでと微妙に違った。その目もフランソワという役の上での人物ではなく、市村自身の目で、まっす
二十年の片想い 35
35.
「秋山!やる気あんのか!初っぱなから台詞を間違える馬鹿がどこにいる!」
「す、すみません」
監督である四年生、内野の二度目の落雷が楓を襲い、全身を打ち砕いた。楓は必死で謝った。
「王様は例えで言っただけ。わかるよね。台詞はちゃんと頭に入ってるよね」
そして主演を務める同じく四年生、市村雅哉の声に救われた。
「はい。すみません……」
「もう一回。同じところから」
「はい、いきまーす。五
二十年の片想い 34
34.
いよいよ家政婦マリーが身分の高い若旦那フランソワに秘めてきた想いを告白するシーンだ。
「秋山。始めるぞ」
宮本が厳しい口調で言う。
「は、はい」
「本番いきまーす。五秒前、四、三、二、一、スタート」
緊張を解く間もなく、宮本の声が容赦なく秒を刻んだ。楓はおずおずと市村に近づいていった。男子学生に触れるなど楓には初めてのことで、しかも相手は誰もが憧れる、稀に見る絶世の美貌の持ち主であ
二十年の片想い 33
33.
「秋山さん、来て。そろそろ出番よ。今日はマリーの告白シーンをやるって言ってたわよね」
同じ日、時刻は午後六時になろうとしていた。ついに来た。いよいよだ。楓は先輩のその声に、身を引き締めた。
演劇サークル「はばたき」の稽古の開始時刻は午後三時三十分だが、授業のある者は当然そちらを優先して構わないし、サボってもそれは個人の自由だ。楓はもちろん、授業を優先していた。今日は授業が終わるとすぐ