みざくらの樹 #9 -「セクシー田中さん」原作を読んでみた
ドラマ「セクシー田中さん」(2023年・日本テレビ)の漫画原作者、芦原妃名子さんの訃報から1か月近くが経とうとしている。このたび、問題となっている「セクシー田中さん」の原作単行本全7巻を、3時間ほどかけて読んでみた。
私はドラマの大ファンで、その後通して再視聴してから原作を読んだが、話の流れ、重要なセリフなどはほぼそのままだった。これが芦原さんが原作の世界を守ろうと必死に書き直した結果だというのであれば、いったい当初はどれだけ改変されていたのかと思う。登場人物もほぼそのままだが、小西だけはイメージが違う。原作はツンツン頭でヤンキー上がりと言っても通用しそうなドラマとはまた違った軽さで、一見してエリートサラリーマンにはみえない。ドラマの小西の方が、朱里の心をつかんでいくプロセスなどが丁寧に描かれており好感が持てたが、この役者さんを売り出したかったため、制作者側はイメージを譲れなかったのだろうか(だとしても、役者さんには責任はないので念のため)。
注目すべきは、第7巻の冒頭で1ページにわたって芦原さんが直筆で書いているドラマの告知である。2023年8月31日付けになっているが、読者に感謝をしつつ、これからも応援を願っている躍動感あふれる文章で、とても5か月先に自ら命を絶つ方は思えないことがなんとも切ない。ここで、その後よく引用されることになる「(自分の脚本への介入は)恐らくめちゃくちゃうざかったと思います・・」と書かれているが、トラブルの兆候があれば逆にこんなことは言わないはずなので、芦原さんは自分の意向は制作者側に十分伝わったと、この時点では満足していたと思われる。それなのになぜ、このような事態になってしまったのか。
以前の記事で私は、ことの発端は脚本家のSNSにあったのかもしれないが、芦原さんを追い詰めたのは心無いネット民のことばではないかと書いた。それならば自分もその一員となって騒ぐことは、芦原さんの鎮魂にはならないのではないか、そう思っていた。しかしながら、このひと月ほどのこの件に関する動きをみると、これはもはや社会問題であり十分究明されなければならないことだと感じている。
ダンマリを決め込んでいた当事者が沈黙を破ったのは、2月8日の小学館の「編集者一同」のコメントである。表現のプロである編集者たちがことばを選びつつ丁寧に書かれたものだということはわかった。ようやく血の通った肉声が届いたと感じたのだが、その印象は、最後の一文「寂しいです、先生」で見事にひっくり返ってしまった。「寂しい」などとは、まるで「芦原先生がなぜこのような最期を選ばれたのかはわかりませんが、残念でたまりません」と言っているようである。コメントにもあるように、芦原さんが事実確認をするときも、ブログの説明文章を作るときも小学館と確認しながらの共同作業だったはずだ。それなのにこの期に及んでなぜ、まるで他人事のような言い方ができるのだろうか。ことばのチョイスの問題と言えばそれまでだが、十分吟味されて出てきた文章のはずだから、違和感満載である。
また本件は「個人の責任」に帰するのではなく、今後の対応は組織の問題として考えていかなければならないと言っているが、それを一部署の意見表明に終わらせずに出版社、テレビ局全体が問題意識を持つためにはどうしたらよいのか。このコメントではその道筋はまるで示されていない。よって抜本的な解決にはほど遠いのである。
テレビ局はと言えば、ようやく重い腰をあげて「第三者」委員会を設置して検討するそうだが、当事者が委嘱した委員会の出す結論はある意味見えており、単なるアリバイ作りではないかとも懸念される。本件を本当の第三者が検証するには、芦原さんの遺族の方々に訴訟を起こしていただくしかないのではないかと思うが、深く傷つかれているであろうお気持ちは尊重しなければならないだろう。
何が芦原さんを追い込んだのか。もちろん本人にしかわからないことではあるが、勝手な想像をすれば芦原さんはその時、限りなく「孤独」を感じていたのではないだろうか。私にも覚えがあるが、多くの人に誤解されたり批判を受けても、誰か一人でも理解して支えてくれる人がいればなんとか乗り切れるものである。芦原さんはその時に、実際にはそういう人がいたとしてもそう信じることができなくなって絶望したのではないだろうか。ただ、それを突き詰めて追及していけば特定の人に責任を帰するとになり、世間の集中砲火を受けることになりかねない。テレビ局や出版社の煮え切れない態度は、そのような「二次被害」を生じる危険性があるからかもしれず、とするならば真実究明は困難を極め、まだまだ時間を要することになるであろう。