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映画「ティファニーで朝食を」(1961年・米) ~ カポーティの原作を読んでみたが

 今年の「午前十時の映画祭14」で上映された「ティファニーで朝食を」(1961年・米)を鑑賞してきた。オードリー・ヘップバーン主演の代表作。劇中歌の「ムーン・リバー」は世界的にヒットした。また、高級宝飾店ティファニーの名を広く知らしめたことでも有名である(※キャッチ画像のご提供ありがとうございます)。実を言えば、私はヘップバーンと言えばキャサリンのファンで、オードリーのことは「ローマの休日」のキュートな王女様以外は正直のところ良いと思ったことはなかったのである。今回も、カラオケでの十八番、「ムーン・リバー」をオードリーが歌っている場面を確かめたくて見に行ったようなものだ。

 まず、驚いたのは「ムーン・リバー」が冒頭シーンから既に流れていたことである。そのあともバリエーションで繰り替えされるのであるが、たしかに歌詞を考えれば随所に流れた方がよいのかもしれない。タイトル「ティファニーで朝食を」の意味も、主人公ホリー・ゴライトリー(オードリー・ヘップバーン)が冒頭、タクシーで早朝ティファニー前にのりつけ、ショーウィンドウを眺めながらパンをかじるシーンで解明する。私はこれを観るまで、このタイトルは、貧しい女の子が、いつかティファニーの喫茶部(があるのかどうか知らないが)でモーニングを食べたいと切望している話だと勝手に思いこんでいた。この誤解が早々に解けたので、思わず苦笑してしまった。

 映画は、結論から言えば、オシャレなオードリー(イデス・ヘッドの衣装が素敵)と当時のガラス細工のような都会の喧騒と退廃、そして名曲「ムーン・リバー」を愛でることに尽きると思う。人気女優のオードリーをフィーチャーしたいつものラブ・ロマンスとしてはよいが、あのトルーマン・カポーティが原作者である所以が投影されているようには、とても感じられなかった。特に、このオードリーの相手役になった美丈夫の青年ポール(ジョージ・ペバード)には違和感があった。現代の感覚からかもしれないが、ポールはとんでもないホリーの言動やハチャメチャなパーティなどを見て、当惑したり、あきれたり、ウンザリしたり、でもなぜか惹きつけられて目を離せなくなる心情の過程をもっと表現すべきではないのか。ホリーの生活も、一見自堕落でめちゃくちゃのはずなのだが、オードリーの根が真面目だからなのか、さすがにあまりひどい姿は見せられないという配慮なのか、ハズレ方が中途半端である。最後は二人が結ばれて大団円なのだが、このような予定調和を、私がイメージしていたカポーティという作家が書いたはとても思えない。案の定、彼はこの作品に不満を漏らしていたという。

 というわけで、映画は鑑賞したもののもやもやが残ったので、その後、カポーティの原作を読んでみることにした。「ティファニーで朝食を」(1958年)。役者は村上春樹である。村上は高校時代にカポーティを英語で読んで(スゴイ)、こんな上手な文章は自分にはとても書けないと29歳まで筆を執らなかったというほどの心酔ぶりなのである。その村上がこの作品を翻訳して原作と比較した映画の評価が「訳者あとがき」に書かれているが、全く同感である。本当に誰か、この作品を原典に忠実にリメイクしてくれないだろうか。
 ホリー・ゴライトリーは永遠の「イノセンス」を保ちつつ、「旅行中」の札を下げた「漂流者」であり続けなければならない。それがもはや彼女の心の安定となっており、世俗的な安定を得てしまった「僕」(ポール)や名前のつけられた「猫」は、違う世界にいるものとしてただほろ苦い気持ちでホリーを偲び、まぶしく空を見上げるだけなのである。それは文庫に収められた他の小品にも一貫するテーマのようで、これらを読むことによってカポーティが書きたかったことがより鮮明になるように思う。

 さて、また映画に話を戻すと、娯楽作品としてはいろいろと工夫を凝らし、観る側を飽きさせないようにしている。ティファニーでの「コーン・キャンディーのおまけ」の指環に特別に刻印をしてもらうというエピソードはティファニーの印象を良くしたかもしれないが、そのあと同じことを客に頼まれたりしなかったのかしらん。主役二人のことは、原作と違うイメージであるとは先に書いたとおり。カポーティは、ホリーのことはマリリン・モンローを想定していたというが、となると「細っこく」はならないがなんとなくわかる。オードリーは細くて美しいけれど「20歳そこそこの小娘」にはみえない。ポールは、原作を読むと完全にミス・キャスト。ポールは、体格にも恵まれず冴えなくて(原作では「チビ」となっている)、自分の小説へのひそやかな自負だけに支えられている青年。ホリーに惹かれているけれどとてもそんなことは言い出せず、見守って応援するしかない。だからホリーも安心してなんでもさらすのである。そう考えるとポールのパトロネス・マダムも不要で、懐かしのパトリシア・ニールも無駄になってしまう。ストーリーの内容を深めるのには、主人公二人に関わる、客観的な目を持つ友人などを登場させるとよいのにと思って観ていたが、原作では「ジョー・ベル」というバーの店主がいる。映画では、二人の世界にするために割愛できる人間関係は簡略化したのだろう。日本人として看過できないのは、ミッキー・ルーニーがこのうえなく醜く演じているアパートの住人、ユニヨシである。当時のアメリカ人が日本人をどのように見ていたか、よくわかる。国辱ものだが、逆に歴史の証人として残しておくべきかとも思う。

 映画史に残る作品を一度は観てよかったと思うが、加えてカポーティを読む機会を得たことは収穫である。映画の「カポーティ」(2005年)も観てみたい。