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Favorite Songs #2 - 「エッセンシャル・エリック・カルメン」 (2014)

  以前、2024年3月に亡くなったエリック・カルメンを追悼した記事を書いたが、「稀代のメロディ・メイカー」と彼を称えながら、ラズベリーズ解散後の彼のソロ活動について全く触れていないことに気づいた。それで彼の良さがわかるのか、とコアなファンの方々には怒られそうである。彼の没後、ネットなどでエリックのことを書いた記事などをみると、どうも彼のファンには男性が多いように感じる。今はともかく、ハードロック全盛時代には「ラズベリーズが好き」なんて言えずに、さぞやご苦労されたことでしょう。お察し申し上げます。最近になってやっと、ラズベリーズ(また、なんでこんなカワイイバンド名にしたものやら)やエリック・カルメンのファンを標榜できるようになったと思ったら、本人は亡くなるし、ヘンな女(私のことです)がミーハーな記事は書いているし、私のnoteの記事はさほど読者は多くないのだが、エリックのことを書いたものはなぜかビューが多く、「ヘタなことを書いたら許さへんで」というような無言の圧力を感じないのでもないのでアリマス(笑)。

 もちろん、独立後のファーストシングル「オール・バイ・マイセルフ」(1975年)が世界的に大ヒットしたことは知っているが、実は私はこの曲がさほど好きではない。当時、この曲がラジオから流れてきて、「エリック・カルメンのソロとしての新曲です」と紹介され、印象的なピアノのイントロを聴いたときのことを鮮明に覚えているのだが、クラシックからの引用だということがすぐわかり、ちょっと興ざめした。そんなことをしなくても彼は素敵なメロディを作れた人ではなかったのか。次に出た「恋にノー・タッチ」も同様に引用があったので、彼はいよいよそれで勝負することにしたのかと思ったものだ。その後、私が洋楽から遠ざかったこともあって、エリックの曲は聴かずにきてしまった。クラシック音楽を聴くようになって、ラフマニノフを聴くたびエリックのことは思い出したが。

 その後、エリックはどんな活躍をしていたのだろうか。そこで、遅まきながら、彼のベスト盤CD「エッセンシャル」(2014年)を聴いてみることにした。YouTubeで彼のことを検索すると、多くの動画が上がってくるのを目にする。久々のヒット曲だった「ハングリー・アイズ」(1987年)では、なんと自らプロモーション・ビデオにまで登場しているが、残念ながら彼の作曲ではなく、心なしか美女に絡まれてもちっとも嬉しそうではない。内心、「こんな曲のどこがいいんだ」と思っていたのかもしれないが、皮肉なことに全米第3位という、「オール・バイ・マイセルフ」に次ぐヒットに。私も正直のところ、この曲の良さは全くわからなかった。さて、ソロになってからのエリックの曲は、半世紀を経て私の感性を魅了するだろうか。

 余談だが、多くの動画で改めてエリックの姿が見られるようになったが、若い時から変わらぬフサフサの髪のくるくるカールと甘いマスク。きっともともとの育ちの良い人なのだと思うが品があり、およそ野卑ではない。写真で見るよりもずっと魅力的で、たしかにこれなら売り出そうとする人たちは彼のルックスを前面に出したくなるわ。LPのジャケットが必ずポートレートなのもわかった。どこかで既視感があると思ったら、そう、あの「・・オスカル・・  ! 」「・・アンドレ・・  ! 」のベルばらの世界観。当時は大ブームであったから、もし今のように動いているエリックのことがもっと紹介されていたなら、女性に絶大な人気が出たに違いない。彼のルックスは必ずしも私の好みではないのだが、そんな私も好きになったかもしれない。そのような人気がエリックにとってよかったのかどうかはわからないが(またまたミーハーでスミマセン・笑)。

 さて、「エッセンシャル」を聴いてみることにしよう。まずは、おなじみのラズベリーズのヒット曲、「明日を生きよう」「レッツ・プリテンド」「トゥナイト」。今さらながら曲の導入のつかみが素晴らしい。
 ファースト・アルバム「サンライズ」(1976年)は、「オール・バイ・マイセルフ」「恋にノー・タッチ」「サンライズ」がヒットした。
 満を持して世に出したセカンド・アルバム「雄々しき翼」(1977年)は、良い成績を収めることができずにエリックや周囲はかなり失望したという。このあたりから、エリックが目指す音楽と、世の音楽の流行とが微妙にずれるようになってきたのでないか。「雄々しき翼」は美しく印象に残るメロディで、どこか後のビリー・ジョエルボズ・スキャッグスに似た感じもあり、なぜ売れなかったのだろうか。
 ある意味、時代に合わせた作品となったのが、三作目の「チェンジ・オブ・ハート」(1978年)。表題作と「ヘイ・ディニー」は完全に当時の流行りに合わせた曲とアレンジ。「デスぺレート・フールズ」を書いたときのエリックはひどいうつ状態だったと自らライナー・ノーツに書いているが、そうだろうな。自分の音楽性に自信を持っている人がやりたくもないことをしたら屈辱だろう。「デスぺレート・フールズ」は美しく仕上がっているが、天下のエリック・カルメンでなくても作れる曲だと思う。
 そして、四作目「トゥナイト・ユア・マイン」(1980年)。これは、エリックを冒涜しているかのようなひどいジャケットだが、エリックもヤケのやんぱちになって、もうどうでもよかったのだろうか。「悲しみToo Much」(いかにも売る気のなさそうなこの邦題・笑)、「トゥナイト・ユア・マイン」のワイザツな歌詞といい、ファンとしては悲しくなってしまう。
 その後、エリックはあの映画「フット・ルース」の挿入曲「パラダイス~愛のテーマ」の作曲者として浮上する(1984年)。この曲は本当にエリックでなければ書けない名曲だと思う。
 気をよくして、第五作「ザ・ベスト・オブ・エリック・カルメン」(1988年)を公表し、シングルカットされた「噂の女」をヒットさせるが私はこの曲はどこがよいのかわからない。
 その後のエリックはいよいよ引退も考えたというが、他人に曲を提供したり、忘れたころに「メイク・ミー・ルーズ・コントロール」(1988年)をヒットさせたりしていた。この曲は、このCDにも収められている「ロング・リヴ・ロックン・ロール」のタイトルが古臭いと言われて改題したとのことだが、エリックがあえてこの古いタイトルのバージョンをこのCDに収録したところに、彼の思いが見えるような気がする。エリックは古いと言われようとなんと言われようと、昔のロックンロールに回帰したかったのではないだろうか。そう言えば、ラスベリーズ時代の美しいメロディの曲でも、途中でシャウト唱法をしていたっけ。彼の歌には、途中に「イェイ !」とか「ハッ !」とかが、全くてらいなく挟まれるのであるが、おそらく完全主義のエリックはそれも含めて自分の曲のベストの姿だと思っていたので、およそ省かれることはなかったのだと思う。芸術家の常としてその点は頑固であり、後の寡作ぶりにもつながったのではなかろうか。                       最後の新曲「ブランド・ニュー・イヤー」(2013年)は18年ぶりに「降臨した」曲だったそうだが、未発表。ただこの曲は、これからのエリックの音楽性の新たな地平を拓く予感を抱かせるような印象的な曲で、何度も聴いてみた。その後の曲の公表がなかったのは誠に残念だ。

 エリック・カルメンのソロ活動時の曲を聴いてみて、私も年を取って感性が鈍っているのかもしれないが、ラズベリーズ時代に惹きつけられて夢中になったあの感動はなかった。「レッツ・プリテンド」「アイ・キャン・リメンバー」などの美しいメロディ・ライン、「そう来るのか・・」と驚かされるエリックお得意の転調などは、今聴いても神がかっていると思うが、その輝きは感じられなかった。私が好きだったのは、ラズベリーズ時代のエリックが中心ということになりそうだ。

 YouTubeの動画で、「レッツ・プリテンド」の「スロー・バージョン」が上がってくる。ラスベリーズ時代のステージで、エリックがピアノの上に小さな鍵盤楽器を置いて、メロディをなぞるシーンがある。「ねえ、きれいな曲でしょ。ボクが作ったんだよ  !」とまるで幼児が母親に聞かせているように無心でキーをたたく様子は、音楽の神に愛された無垢な天才の姿そのもののように思える。
 若い頃に一世を風靡したスターが、そのあとの長き生活をどう送ったのか、想像することは簡単である(YouTubeでは、いよいよ晩年に彼が出演した番組なども上がってくるが、オペラ座の怪人のファントムみたいな容貌で出ていて、正直言ってあまり見たくはないのでパスしている)。若い頃、エリックの望みは「オーバー・ナイト・センセーション」の歌詞どおり、金でも名誉でもなく、世界中に自分の曲が流れることだったのだと思う。時代の波には逆らえず、意気消沈したこともあっただろう。しかしながら、エリックは最期までピアノに向かって音楽と語らい、才に恵まれた自らの人生に感謝して生を終わったのだと信じたい。そして私は、これからも命あるかぎりエリックの珠玉の曲を口ずさんでいくことだろう。小学生のとき、ラジオにかじりついて洋楽を聴きながら海外に思いを馳せていたとき、出会った美しいメロディの数々を思い起こしながら。

 エリック、あなたが亡くなって、私はこんなにもあなたのことが好きだったのだと改めて気がついた。どうぞ安らかにお眠りください。心より感謝を込めて、お祈りしてやみません。rest in peace.