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1586年 坂口館

「お隣さん、で良いのう。二、三日顔を見んかったがお加減はどうじゃ。」
「頭の痛みがぶり返してはきています。でもまだ純忠公としてやらねばならないことが。」
「あまり無理なさるな。キリシタンのこともいろいろ思案したがいずれ領内の者は真宗に改宗させる。拒む者も大勢いる居るだろうからその者たちは松浦や島原に逃がそうと思う。そのことはあなた様から言われる前からも考えておった。いつ秀吉殿の気が変わってもおかしくはなかけんね。どんな教えであっても民を救わにゃならんのは同じたい。」
「島原、ですか?」
「うん、どうした。何か言いたそうじゃのう。」
 ここで後の悲劇を話したところでどうにもならない。
「いえ、何でもありません。でもそれで大村を弾圧から守ることにはなるでしょう。それで本山はご許可なされたのでしょうか。」
「本願寺は今は無きも同然。ここはここで勝手に動いてよか。信仰の歴史は洋の東西を問わずこんなもんたい。時の天下人に利用され裏切られる。その繰り返したい。」
「ところで大村家はどうなさるおつもりじゃ。」
「同じようにこちらに改宗しようかと。私自身も前の時代からご縁もありますし。」
「あんたの言う史実とやらではどうなのじゃ。」
「日蓮に改宗しております。菩提は本経寺。」
「ならばそうなされよ。寺を焼き討ちしてまで領民全てをキリシタンに改宗させたほどの大村じゃ。いわばここは日本のキリシタンの総本山の町。民たちと同じ真宗ではいつまでもキリシタンの疑いは晴れまい。」
「となればあと宝生寺で富永様が供養していたという純忠公の遺骨も。」
「わかった。いずれ本経寺へ移してもらうことにしよう。だがそれはあなた様がこの時代から居なくなって何年もしてからのこと。この寺でその手配を記しておく。」
 はて、どうだったか。そんな記録のことは住職に尋ねたこともなかった。純忠公より以前のことは「焼き討ちされて何も残っとらんのや。」とは言っていたが。まあ良い、大村純忠はこの坂口の館で亡くなったのだから西教寺にその記録が残っていても歴史的に矛盾はない。それに一度は焼き討ちしたといっても寺と館は隣接している。今の私と和尚のような関係を純忠公も持っていたのかも知れない。以前から思ってはいたがかなり気性の激しかったという純忠公が晩年人格が変わったというのもこの和尚のせいだろう。
「城下を大きな宿場としてはならないことも喜前様にはお伝えしておきました。」
 直接遭って言い切れなかったことはこの和尚を使者として喜前公に伝えることにしてある。富永殿も喜前公が三城の主となったのを機に一線を退いている。少なくとも何処の誰か判らぬ私が話すよりは和尚の方がよっぽど説得力があるだろう。
「いずれ大村は長崎への街道の一つになり人々の往来も今より増えるでしょう。しかしながら少々の商いが増えたとて大村の財政、いや蔵の足しにはなりません。今は城下を大きくせず目立たせないことが大事なのです。幕末、明治への力を蓄える為にも。」
「あなたのお考えはようわかっとうたい。そうねえ、とは言っても宿場も造らんわけにゃいかんだろうけん、松原あたりがよかろうねえ。あの辺りなら職人や商人も多く居る。うちん寺の再興も石工はあの近くから来てもらった。宿場にできるちゃんとした町じゃ。」
 そういや大村で唯一といってよい海水浴場があった。古い旅館跡も確かにあったし宿場だったのは間違いない。街道沿いの街並みもいわゆる小京都風でたしかに和尚の言う通り職人町という印象だ。近年、と言ってよいのかどうか随分観光地化もされている。「鶴瓶の家族に乾杯」でも訪れていた。住職とタメという石碑店も少し手前の町だ。ひょっとして付き合いはこの頃からなのか。
「城下はもちろん、とくにこの辺りから桜馬場を経て箕島に至る辺りは大きな街にはなさらぬようにとお伝えください。未来の大村に取って大事なルート、いや道筋です。今のままの馬場や荒れ地のままで十分です。くれぐれも。」
「ほんに、何もないあの島が空の港とはのう。」
「桜馬場には将来日本全体の軍の部隊が置かれます。この島国日本が地震や災害に常に見舞われるるのはこの時代も私の時代も同じです。軍としても活躍はしたようですがそんなことより先々の日本にとって災害救助、災害復興には欠かせない部隊となります。」
 自衛隊と言っても理解はされないだろう。それに正直なところ雲仙や神戸に始まる「大村部隊」の活躍は私自身防衛省の人間としてではなく日本人として誇りに思っているのが事実だ。
「それとは別に鉄路で江戸から半日で人や物資を運べるようになりこの近くにその駅ができるのです。街の進化や時代を考えれば大したことではありません。それに言っちゃあ悪いですがこの大村のことです。空港とて地元の方が使う以外は長崎の町や南風崎にできる大きな公園に遊びに行く客がほとんど。新しい鉄路に至っては人の利用は微々たるものでしょう。」
「あの無残な合戦のあった南風崎に人が遠くからまで遊びに来る公園とは。」
「瀬戸を渡った針尾側に大きなオランダ公園ができます。」
 ハウステンボスと言ったところでややこしい。
「そういえば佐世保に通販、いや手紙で物を売り買いする大きな会社もできます。前の時代ではその宣伝広告を見ない日はありません。」
「手紙で売り買いのう。そうかおっしゃるように一日で物を送れるようになればそれも出来るか。」
「正確には手紙ではなくて電話やネットというものなのですが説明が大変なので省かせていただきます。」
「しかしここいらに人も滅多に乗り降りしないようなその駅とやらを造って意味があるのかねえ。」
「私にも今はどんな役に立つか判りません。でもこの町に存在する物や人、その全ての可能性に私は賭けたいのです。元の時代の私の上司も同じでしょう。大げさかもしれませんが人類や全ての生き物の未来がそれにかかっている。こちらへ来てからそんな気がして来ています。」
 以前の私ならそんなこと考えてもみなかった。でもミサトのセリフを私が実体験する羽目になるとは。庵野監督おそるべし。
「ただ、仏の道に仕えるものとしてあなたに一つ説教せねばならん。いくら学問が進んだとて過去はどうにもなるまい。さっきあーたに無理ばするなっつうたけど、無理ばしたところで仕方んなかこつもあんじゃなかとね。あなたが四百五十年も先に生きとったということはそこまでの歴史は変えられんということ。あなたが考えるべきことはそこから先の未来をどうするかということじゃ。私に言われんでも自分で解っておると思うが。そんためならどんな協力も惜しまん。」
 和尚の指摘の通りだ。そんなことはとっくに気づいている。この時代で私がやっていることもさほど史実と変わらないのだ。まだ迷っているあのことですら幾度考えて直してみても史実に何も残っていないことの方が不自然なのだ。私がこの時代に来てはいなかったとしても先の純忠公や喜前公なら同じ策をとっていたのかも知れない。
 こちらに来てからの私はいろいろ考えた。大村をもっと発言力のある大都市にする策はないかなどと思ったりもした。何故薩長土肥の「肥前」が佐賀なのだ。たしかに大きな城下だが戊辰の戦いでも最前線で戦ったのは佐賀よりも大村ではないのか。大村を少しでも強くして明治政権に多く人材を送り込めばあの昭和の戦争も止められるのではないか。だがそれが馬鹿げた考えであることにはすぐにたどり着いた。
 歴史を変える、私にそんな力などあるわけがない。出来るとしたら和尚の言う通りもと居た時代より先の未来を創ることだけだ。ただし、それは私一人がやることではない。また、やれることでもない。そもそも戻れるかどうかすら判らないのだ。ありきたりな言い方だがそれには同じ時代に生きる世界の全ての人々の力が必要なのだ。私もその一員でありたい。でも戻れなければその願いは叶わない。
 とにかく今の私の任務は一つ。
「令和の大村をそのままの形で残すこと。」ただそれだけだ。あとはその未来に託すしかない。

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