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鹿島田真希さんへの手紙を考える

鹿島田真希さんへの手紙を考える

 ファンレターなるものをどう送ればいいのかということを考えあぐねている。
鹿島田真希さん、というのは2012年に「冥土めぐり」で芥川賞を受賞した日本の現代作家だ。僕は猛烈なファンというわけではない。ただ、鹿島田さんの『選ばれし壊れ屋たち』『少年聖女』という二冊の小説が2016年に出版されていらい、現在に至るまで7年間も沈黙が続いている。そのことがとても気にかかって、もう小説を書いてはいらっしゃらないんだろうか、とか、はやく最新作が読みたいな、とか色々考えてしまう。Twitterは(作者名では)やっていないみたいだし……

これまでその『冥土めぐり』のほか、『六〇〇〇度の愛』、『ゼロの王国』、『少女のための秘密の聖書』、そして『暮れていく愛』を読んできた(彼女の著作数に比べると少ないものである)。なかでも、大作『ゼロの王国』は本当に夢中になってかじりついて読んだ。こんな小説が今の日本にあるのか!と感動した。
 鹿島田真希さんの紹介をWikipediaで調べると、「日本の小説家。特にフランス文学の影響を受けた前衛的な作品を執筆している。」とシンプルな仕方で書かれてあり、これが実に的を得ている。彼女の小説はどことなく仏文っぽい雰囲気を濃厚に醸し出している(どこが仏文っぽいのかと聞かれると返答に困るのだが)。そして、その文章というか、物語の展開が他に類をみない。読みやすいのに、どの方向に連れていかれるか分からない一種の不安とおぞましさが鹿島田作品のストーリー展開にはある。
 前衛的であるがゆえに、賛否両論を惹きつける作風であるなとも思う。先ほども書いたように、どことなくフランス文学っぽいのだが、どこがそうなのかが読者にもよく掴めない。ひとつには、本や小説の話題は会話文や地の文で幾度となく繰り出されるのに、具体的な作家や作品名となると明示されていないからではないか、と思える。タイトル名は語られることのない、作家名を欠いた、(話者の語りによる)物語の要約を中心とした不完全な表現でしか〈本〉が語られることはないせいでは? そしてそれは何と鹿島田さんの小説自体の構造にもなっているのだ。しかし、こればかりは他の作品にもあたってみないと確定的なことは言えそうにない。
 鹿島田真希さんの小説を読んでいると、言いようのない不安に囚われる。誰もが片隅に抱いている狂気というか、静謐なる異常、あるいは誰もが陥る可能性のある暗闇への道がそっと脳裏に開かれる……しかも、鹿島田さんは同時に希望と脱出口をも描いているのだ。とにかく、夢中で読んでしまう。そして駆け抜けるように読んでしまうと、その圧倒的な物語とピンときつく張りめぐらされた緊張感の前にひれ伏すほかはない。
 と、ここまでつらつらと書いてきたが、鹿島田さんのデビュー作は文藝賞受賞作の「二匹」。そして飛躍点となった芥川賞受賞作の「冥土めぐり」は河出文庫になっており、鹿島田さんの作品はだいたいにおいて文藝春秋か河出書房が扱っているようだ。試しに文藝春秋の編集部にでも手紙を書いてみようか、と思ったが、文藝春秋の問い合わせ先を見るに様々な用途に従って連絡先が分かれてあって、躊躇してしまう。しかし、この際本当に手紙を書いてみようかと思う。それを出版社の編集部に送るというのも変な話だが……そういえば、吉行淳之介だったか遠藤周作だったかは忘れたが、ある戦後作家の本の奥付に作者の現住所が書いてあって「感想・意見求ム!」的な事が書いてあったのを見たことがある。しかも一回だけではない。昔は色々と自由だったんだなぁ……(ニセの住所である可能性も否めないが)。
 ついぞ書かれなかった手紙にならぬよう、有言実行するつもりである。あくまでつもり。
(了)

セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。