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青葉市子「重たい睫毛」について

 青葉市子さんは1990年生まれのシンガーソングライター。思わず身がうち震えるような、無重力と迷宮の世界に連れ去られるような、すぅっと透き通る歌声と、小さな手で操られるクラシック・ギターの圧倒的な演奏力で、聴く人・観る人をしずかに圧倒する。
 彼女の音楽については書いても書いても飽き足らないほどである。今回は僕の好きな曲である「重たい睫毛」の一部分の歌詞について紹介していきたい。
 「重たい睫毛」は青葉さんのデビュー・アルバム、二十歳の時にリリースされた『剃刀乙女』というアルバムに収録されている。

青葉市子さん

全文掲載は著作権法違反にあたるので、あくまで部分引用であることを断っておく。

ぼくらは嘘で庇い合い 許し合い
素直ないのちから 逃げ惑っていたのかもしれない

青葉市子「重たい睫毛」より
ICHIKO AOBA『LYRIC BOOK』(アダン書房、2023)、20頁

素直ないのちから 逃げ惑っていたのかもしれない。
 「重たい睫毛」の歌詞では、”いのち”がキーワードになっている。命とも、生命とも書かない。素直な”いのち”。
 いのちは素直なものなのだろう。素直に生きる、素直に心臓が鼓動する。そして素直に死を迎える。
 人間はそれでは飽き足らない。特に複雑な(というより面倒極まりない)言葉を扱う僕たちは。言葉で騙し、言葉で騙される。炎上する。詐欺罪に問われる。虚言をさらに増幅させていく。そうやって、社会的動物であるところの僕たちは、言語によって強固に成り立つ共同体を創りあげ、持続させてきた。
 次の連にいこう。

人は誰かをナイフで突き刺しながら歩んでゆく
それがいのちのさだめ

同上

 ここには極めて分かりやすい、いわばキラーセンテンスが置かれている。これは青葉さんの作品の中ではとても珍しい分かりやすさ、突き刺さり方だと思う。メッセージ性のある言葉とでもいえばいいのだろうか。
人は誰かをナイフで突き刺しながら歩んでゆく。
 
人はしちめんどくさい言語(言葉の体系)のなせるわざによってその社会を形成し保ってきたのだった。社会は、他者との共存を余儀なくする。そしてそれは、自我を有する主体「私」にとってはということだが、他者との衝突を必然的に生み出す。迷惑をかけながら生きていく、という通俗的な理解でもいいが、僕たちは時に言葉の刃だけでなく、物理的なナイフによっても人を傷害していく。殺害を繰り返す。
それがいのちのさだめ。
 社会なしには生きることができない「私」。なんという脆弱な存在だろうか。なんと矮小な生き物であることか。

 そこから「重たい睫毛」の曲調は静かに、ゆっくり、しかし確実に変わる。言葉にならない歌声が響き渡る。海の底から光の水面へ。昏い闇から天に降り注ぐ星へ。悲観から希望へ。ここはぜひサブスクリプションなどで聴いてみてほしい。

目を開けてみなさい
水浸しな重たい睫毛を
少しずつ開いて

同上

Open your eyes and see---
 ここではどんな情景が目に浮かぶだろうか。「重たい睫毛」は水浸しになっているという。
 僕はここを聴くときにどうしても、洗顔中、前方の自分の顔が映っている鏡に目を移すという、我ながらセンスの一欠片もない所作を連想してしまう。別にそれでもいいんだろうけど(よくないけど)、折角なので、「水浸し」という言葉から続けて考えてみると、たとえばこの「水」は涙であるのかもしれない。いのちのさだめに疲れ、人をナイフで突き刺していくことに絶望した人。むせび泣き、顔面を手で覆う人。そんな涙で睫毛は重たく湿っているが、涙は必ず乾く。人は泣き止む。そういうときに、というか哀しくてどうしようもないとき、この曲のこの部分を聴くと、まるで上方から天の声が告げられるかのような、そんなちょっとした神秘的な体験を僕は幾度となく通過してきた。どんなコードであるのかギターを触りながらでも調べてみたいが、「目を開けてみなさい」と柔らかに謳う青葉さんの声は、どこまでも優しい天使の旋律そのものだ。
 あるいは洗顔中であれば、洗面台で顔を洗っているときは必ず下を向くので、鏡を前に眼を見開くときは、顔を上にやる必要がある。下から上へ。瞼の裏から、光の世界へ。

 僕はあまり考えたことはないのだが、睫毛というのは、元々が少し重たいものなのかもしれない。それがいのちのさだめだ。人は誰かをナイフで突き刺しながら歩んでいく。青葉さんはそのことを否定するわけではない。
 睫毛にかかる重量があまりにも大きいとき、いのちのさだめに疲れて絶望を抱えるときーーそんなとき、この曲を聴いてみてほしい。素早い爪弾きからなる厳粛なイントロから、惹き込まれるはずだ。

 最後に、蛇足といえば蛇足だが、『LYRIC BOOK』には英語の歌詞も同時に付されているので、それも紹介して記事を終わろうと思う(紹介した部分の対応箇所である)。

We lied to protect each other
and to forgive each other
Perhaps we were lost running,
fleeing from the simple sincerity of life

Humankind makes its way forward
thrusting knives into each other--
Such is our fate

Open your eyes and see--
lift those heavy, dripping eyelashes
slowly, slowly


セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。