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一番好きな映画と『道』と。

「一番好きな映画は?」と試しに自分に問いかけてみた。その答えは、「ロード・オブ・ザ・リングか、ジュラシック・パークか、プライベート・ライアンかなぁ……」だった。なんということか。よりにもよって(?)同じ監督が二作も入っている。僕はスピルバーグ主義者なのだろうか。E.T.もジョーズもとても好きだけど……そもそも映画を監督別に観ていないという癖もある。作家主義ではないんだろう。現在でも。
 結局、バカみたいに高額なお金が投入され、視覚効果をふんだんに活かしたいかにもハリウッド的なドラマチックな興奮を映画に求めているのかもしれない。エンターテイメントだ。ポップコーンを食べながら終末の夜を贅沢な消費として享受するというアレ。
 莫大な金額のかかったハリウッド映画は分かりやすい。分かりやすく感動する。実際、展開される物語が素晴らしいとしか言いようのないものも多いし、息をのむスペクタクルは実に手際よく構成され、見終わった時には大満足して安心するか泣くか……
そういった映画に対し、距離を置いているというか、雰囲気の違う作品たちがある。僕はこれを単に「シネフィル系」というとても粗雑な言葉で呼んでいる。シネフィルとはフランス語で「映画狂」のことである。一年に300本も400本も映画を観続ける人たちがこぞって愛する共通の有名な作品、それに俳優やカメラマンだけでなく、おそらくその中心に名の通った映画監督たちがいる。
シネフィル系の作品は「映画史」と深い関りがあるのだ。もちろん、今や超大エンターテイメントを量産して久しいハリウッドの映画も歴史的な体系性を重く持っている。一方で、人々が安心して明日から日常に戻れるように優しく作られた作品たちがあるのとは別に、映画の定義そのものに挑んだような挑戦的な作品群がある。文学でも全く似たような不毛な現象があるだろう。僕がここでいいたいのは、エンターテイメント作品と「純」な、挑戦的な作品との野暮な優劣問題を蒸し返そうというのでは全くない。そんなことはほとんどナンセンスだ。そうではなく、なぜ僕は一番好きな映画のことを考えたときにふと、スピルバーグの『ジュラシック・パーク』と『プライベート・ライアン』を挙げたのか、そのへんをまた続けてかんがえてみたい。

 とはいえ、スピルバーグについて語るのは今の僕には難しそうだから、去年の年明けに観たフェデリコ・フェリーニ監督作の『道』について少し書きたい。とっても好きな作品だ。僕はこの哀しい物語にとても心打たれた。鑑賞し終えてからしばらく傷心していた(今でも思い出すとつらい)。いわずもがな、フェデリコ・フェリーニはイタリアのみならず世界映画史に名を遺す重鎮中の重鎮だ。『道』の、登場人物の感情や想いを画面だけで伝える(むしろセリフがないところでこそ)、あの的確な表現力と、この哀しい物語がただ哀しいだけではない、いくつもの愛やほっこり感動してしまうような希望の言葉(これはいくつかのセリフたちだ)に、心救われた。だからこそ悲劇的な結末に心がめためたにやられてしまったのだが。



『道』は1954年公開らしいので、時期的には「イタリアのネオリアリズモ」の転換期ということになるのだろうか。実は、「ネオリアリズモ」、新リアリズムとでも表わせばよいのであろうか、この概念のことをまったく分かっていなかったのだが、とにかくそのネオリアリズモと呼ばれるイタリア映画の作品群には、悲しい結末が多いらしい。そして、第二次世界大戦が終結する前後の、荒廃したイタリアの社会を描いている。貧困と犯罪、人民格差や差別。
それだけではない。この時期のイタリア映画は、映画表現的にいくつか共通するような大胆で新鮮な手法を採っていたらしいのだ。それは、他の、映画に関する本を読むまでは分からなかった。ぼんやりと映画を観ただけでは僕では全く分からなかったことだ。今でもそんなに分かってはいないが。とにかく、戦中から1960年あたりにまである範囲において共通した特徴を醸しだしていたイタリアの映画がネオリアリズモと呼ばれたものだということになるのである。

これから僕はこの時期のイタリア映画をぼつぼつ観ていきたいなと思っている。フェリーニはすげえや!と思って、次に観たのが「8 1/2」という実に変わったタイトルの映画なのだが、これまた内容もへんちくりんりんだった。こういうところに、監督の、作家スタイルみたいなものがあるのかもしれない。たとえば、文学者の書く小説も、時期によって微妙に作風が異なるみたいな。それが作家主義的態度の映画鑑賞の醍醐味なのだろうか。そういうことを考えながら、あぁそういやB級ホラー映画も観たいなぁ(もちろん監督なんてほとんど分からない)なんて思ってしまうのだ。

セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。