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あなたの字は素敵だねだと言ってくれたから(エッセイ)

 字が汚かった。小学生のあるとき、通っていた塾の算数の先生に「おい、ちょっとこれを見てくれ」と、苦笑されながら自分の書いた答案を渡された。確かにそこには自分でも判別するのがやっとなほどの乱雑な走り書きがあった。算数の先生は、まるで現役のヤクザのような風貌をした痩せぎすの男性で、僕はその先生が大好きだった。怒ると怖いけど、快活な笑い話で生徒の心をぐっと掴むところに惹かれた。その先生が、「さすがにこれは読めないな。次からは気をつけろよ」とポンと僕の肩を叩き、そのまま颯爽と去っていった。

 母から「あんたの字は汚いねえ」とよく言われた。母は僕の目の前で、「私の字を見なさい」と、速記風にHB鉛筆を走らせた。筆記体のようなその字は、はっきり言って幼少の僕の目には、あまりにでこぼこして突飛な見た目にしか映らなかった。それでも母は、あんたは字が読みにくいんだから、と繰り返し言い聞かせていたんだと思う。被害意識も重なってか、僕の字は汚いんだな、と思うのが当たり前になった。

 大学の、最後の留年した頃の話。一週間だけのお付き合いだった(それが果たしてお付き合いと言えるほどのレベルなのかどうか怪しい、それくらい浅い繋がりでしかなかった)人と、よく晴れた日の、ポプラの木の葉が気持ちいい風音を立てる公園で、いくつかの言葉のやり取りをした。僕は、たしか「森の思想」と名付けたような哲学めいた散文を認めたキャンパスノートを彼女に見せた。森や山といった場所は人間の原初の場所であり、自然と和解をすることで人間はより人間らしくあることができる、ということを書いた、今から考えればよくある話の一つにすぎないような文章だ。でも、彼女はとても面白いと言ってくれた。そして、「あなたの文章は綺麗だね。素敵な字が書けるんだね」と僕に向かって言ったのだ。
 そう言われた瞬間、不思議な感覚に誘われた。急に視覚がくっきりしたというか、耳が澄み、濁った頭が急速に冴えわたるような、そんな体験だった。これを青天の霹靂と言うのだろう。その内的な体験は、どこかで横たわっていた心のおもしを、彼女の優しい語りによって取り払ったのだ。本当に僕の字は汚かったんだろうか?と。
 「字が汚い自分はなんてダメなやつなんだ」と、どこかで自分に対するマイナスの評価をしていたんだと思う。だけど確かに考えてみれば、別に読めないこともないくらいの、ありきたりなものだ。僕の字は案外普通なのかもしれない、なんならほどよく個性的でそれもまたいいのかもしれない、なぜなら書くことがとても好きだから。当時、勉強や詩作は、自分の根っこになっていた。

 今ではまた読みにくい文字を書くようになってしまった。とあるきっかけで、般若心経に興味を持ったので、ふと思いついて写経用セットを購入した。ゆっくり、落ち着いて写経することで、心を落ち着けるとともに、自分の字に対する信頼を取り戻してきたい今日この頃。(了)

セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。