見出し画像

哲学と文学と

哲学と文学と

 「哲学と文学の関係性」を簡単に考えてみたい。そんなことは簡単に考えられることではないだろうという向きはあるだろう。しかし、それを理由に思考を放棄すべきでないのは明らかだ。ここではブログ記事の一つにするために、ある種の叩き台として考えることを記述していこうと思う。

 まず、「哲学と文学」という表現は何かということがある。こういう言い方ができる。「文学か、それとも哲学」という言い方が他にあるのではないか、と。そうである。「文学か、それとも哲学か」という問いは選択を迫っている。選択者はどちらかを選ばなければならない、それで今度は「文学の優位」もしくは「哲学の優位」を結論付けたり、あるいはそれを出発点とする。この選択者のことを「orの人」と仮に呼んでみる。orの人々においては、哲学と文学は結局和解することも、それらを綜合することもないだろう。お互いを憎みあうことにすらなっていく可能性を秘めるだろう。

筆者は、「哲学と文学と」という表現で自身の態度を表現したい。これを、「andの人」と呼んでみる。しかしそれは、orの人々の選択と同等か、もしかしたらそれ以上の困難と苦しみを抱え込むことになる。哲学と文学をどのように自身の(たとえば読書において)並列、ひいては共存させればよいか? これは個人的な問いであるとともに、"哲学"と"文学"とは改めて一体「何」なのだろうか? という基礎的な問題へと改めて差し戻される。

哲学とは……本来の哲学とは……文学の本質は……と語る向きはあるだろう。というか、既に夥しいほどのそれらの本質論がなされているだろう。筆者も、本質論的思考をずっと持っている。ただ、それはある種の「暴力」、抽象作用であるという意味において「微かな暴力」なのかもしれない。それでも敢えてその危険を実行してしまう事の覚悟は必要だと筆者は思う。もちろん、なるべく「本質」「本来」という表現を使わずにそれをやってみよう。

畢竟、哲学とは思考に結びつけられている。それは自明なことだとは思う。あらゆる哲学者というのは「考える人」、思考する人として紡がれ、語られてきた。ソクラテスの問答法、デカルトの発見、カントの散歩。それらには常に彼らが激しく思考したゆえの著作や結論があるのだ。

これに対し、文学は確かにプロットの「構想」や読者としての読解行為など、思考に結びついている面は多大にあるのだが、それでも文学の第一義的な面に思考が坐するわけではない。もっと他の何かがある。文学とは想像力のことである、と筆者は端的に示してみたい。それは、哲学における理性や知性――ここでは、カントの感性・知性(悟性)・理性の区分に従っている――による思考とは毛色が違うはずである。カントは「構想力」を考え抜いた。繰り返し、文学とは想像力を用いたり、あるいは想像力を発展させたり吟味させたりすることによって産出されるものである。作者は想像力を用いて、作品を「生産」する。哲学者は知性や理性を用いて、哲学書や箴言を「生産」する。

 この議論では、想像力ひいては感性に由来するそれの人々と、知性・理性の人々という対立になってしまい、またしても文学と哲学の華麗なる「和解」は不可能なように見える。そう性急に結論付けてしまっていいのだろうか? もちろんいいはずはない。ではどうすればいいか。

哲学の方からは、こんなことが言えると思う。「感性的な、想像的な、そして創造的な」哲学があるのだと。それは感性論や美学という形態を採ることもあるし、詩的言語を(ふんだんに)用いた文体=スタイルを持つ哲学書の形態をとることもある。そして何より、創造性というものを深く思考した哲学だけが、そうした哲学になりうる。こうした哲学を、「想像=創造の哲学」と危険を犯して呼んでみたい。

想像=創造の哲学とは何か、これを説明する暇はこのブログ記事の長さ的にも与えられていない。しかし、僕はフランス現代思想における、フーコーやドゥルーズの哲学は、その一例だと思っている。なぜなら、第一に彼らのテクストは「スタイル=文体」を強固に有しているからである。それは、彼らの著作を読んだ人ならほとんどの人が気付くはずの点である。ハイデガーの哲学にも想像=創造性があり、キルケゴールの哲学にもそれがあり、ニーチェの哲学にも想像性があり、これがデカルトやカントやスピノザになってくると、彼らにおいては文体=スタイルこそが哲学なのだと言ってしまいたい欲望に筆者は駆られる。スピノザの『エチカ』、カントの『純粋理性批判』、デカルトの『方法序説』、これらはテクストの紡ぎ手として、どれほど革新的であっただろうか。彼らのような文章を筆者は他に見たことが無い。そのどれにも独自性がある。

 この点において、哲学と文学は「和解」に至っていると、筆者は思うのだ。本稿では、あくまで哲学の方面からしかそうした文学と哲学の和解を述べてはいないのだが、一つにはそうした形態の和解が考えられるという事だ。和解においてはじめて、「哲学と文学と」という態度決定が正当なものとしての歩みを開始するのである。



セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。