「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を見てきた雑感

見るぞ見るぞといって延び延びになってた「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を見た。以下雑感。

三島由紀夫曰く「天皇がもっとブルジョワジィだったなら革命はもっと容易だっただろう」と。
思えば当時よりずっと貧しくなってるのに革命のかの時も出てこない。
恐らく革命のモチベーションは貧富の格差であって貧しさその物じゃないんだろう。
自称リベラル連中にとって一番応えるのが貧者からの冷笑だというのはここ数年で熟知した。
革命の情熱のないリベラルほど嘲笑の的になるものもない。

三島由紀夫の締めの言葉「私は諸君の情熱を信じます。情熱以外の何も信じなくてもこれだけは信じます」って言葉が一番が刺さっているのは誰だろうか。
彼の人はああいうが、情熱がむやみやたらに尊ばれなければならない道理はない。
思うに情熱的な人間とは、ただ単に生得的な発火点が低いだけで、別に合目的的な後天性は殆どないのではないかと思っている。
(一応いっておくと、自分は割と激情的な方だし、冷笑を肯定するつもりもない)

東大全共闘討論の中で芥某がこう切り出す。「日本人であることに実態性があるのか」と。
これに対して三島由紀夫も、「自分は日本人から離れられない」と割と紋切り的に返すが、別にこの手の問は日本人の実態性とか実質とか言い出したら血と肉と骨だけが確実な実態としかいえるものが残らないし、それをいい出したら人の同質性の話にしかならない。
日本人という枠組みなぜ必要かといったら、同質性じゃなくてまったく逆の話で異質性のために必要なのだ。
他者との分断のためにこそ必要な概念であり、それを単なる言葉と断じたら、そもそも人の名前すら単なる言葉でしかなく、実質性だけでいうなら「ほげほげ番目の人」だけで十分足りる。
わざわざ役場に届けてまで名前をつけたり、そうでなくても更にネットとか創作用にまで新たな名前をつけるのは、他者と”違う”ことを演じるためにやってるのであって、同質性だけが重要な概念じゃないなど何度使い古された概念だろうか。

一つだけ、重要なことを思い出した。
自分も冷笑的な人間に対しては、本当に受け入れがたいほどに不快感を覚えるということを。

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