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邪馬台国と卑弥呼…魏志倭人伝は実に正確だった 3.水行十日陸行一月とは?

 前稿で、『邪馬(やば)台国』は、九州中津市にあった『耶馬渓』付近であり、瀬戸内海に出る港としては『宇佐』と説明した。
 いよいよ、『邪馬台国』と『卑弥呼の都する処』について述べて行く。『宇佐』から東進する場合には、上の図のように
 ★瀬戸内海を船で行く…水行
 ★四国に上陸して陸路で行く…陸行
である。この場合には、進む方向は東しかないので特に方向を示す必要は無いであろう。
 これが『魏志倭人伝』でも特に方向は記されていない理由である。
 ここで、筆者らは、『卑弥呼の都する所』= 『淡路島』(舟木遺跡、五斗長垣内遺跡)と推定している。この理由については、別途、『魏志倭人伝』と『日本書紀』の記述を比較することにより確かめられるが、ここでは前提として置いておく。
 出発点としては、『邪馬台国』付近の宇佐であり、目的地は淡路島という水路・陸路の検討になる。
 この二つの経路図は概略上の図で示した通りである。この時に
地図から経路長を二つについて近似的に求めると
 ★水路 おおよそ 375km…①
 ★陸路 おおよそ 429km…②
程度に求められる。あくまで直線を繋いで近似している。
 すでに述べたように、前稿で
 ★水行は一日当たり、37.8km
 ★陸行は一日当たり、14.4km
と統計的に中国の史書を元に求められていた。
 そこで、『魏志倭人伝』の記事を元に計算すると
 ★水行10日での距離 378km…③
 ★陸行一月での距離 425km…④
と計算できる。
 ①は③と、②は④とそれぞれ比較すると、近似的とはいえ誤差は、
 ★①と③ 水行で3km ★②と④ 陸行で4km
と、極めて精度のいい結果を得ることが出来た。
 この結果から、『魏志倭人伝』に書かれた下記記述(左から6列目)

倭人伝(一部)

の意味するところは、「水行10日後に陸行一月」と解釈するのでは無く、
「水行なら10日、陸行なら一月」と解釈すべきなのである。
 なぜなら、作者『陳寿』は、女王の都する所には至っていない…女王の近くに行っていたとすれば、その詳細な記述があるはずであるが、『魏志倭人伝』には無いからである。
 女王の都する所へ行くには、【旅行情報】として、「船なら10日、陸路なら一月」を記述したからである。
 これまで多くの研究者や歴史家、推理作家などが、誤った解釈の下に、日本の内地には存在しない…という苦しみを味わいさせられてきたが、解釈は並列に記述したものとすれば、一向に問題なく読めるのである。
 さらに、すでに距離計算で示したようにこの考え方は、数値的にも誤差の小さな結果で一致することも検証した。
 次稿では、紹介した『日本書紀』と『魏志倭人伝』双方の記述を比較することによって本稿で述べたことが説明できることを示します。
  乞う、ご期待!

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