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山の辺の道北端…高畑町の天平時代とは?

山の辺の道は、上ッ道、中ッ道、下ッ道が出来るまでは奈良盆地東端にある春日山の裾野にある古道でした。
実は、山の辺の道にある白毫寺には、皇子の別荘があったと言われ、その西に下ると現在の高校のある場所には、聖武天皇の離宮がありました。この離宮跡は実際に発掘されて当時の年号を記した木簡が出土しており、存在が確認されています。これは高円離宮の屋敷跡と考えて良さそうです。自然の地形を活かして庭園としたものらしく、三彩の破片や天平五年の墨書のある木簡が出ています(「日本の古代遺跡4奈良北部」保育社より)。

東西150m南北100m以上の範囲を持つ遺構

さらに北上した現在の新薬師寺付近には「井上村」がありました。これは、聖武天皇と夫人・県犬養広刀自の間に生まれた井上内親王を指しています。
そう井上内親王は、実は怨霊になり東大寺のお水取りでも登場しているそうです。
この辺りには、「鏡神社」がありますが、私の推測では、「鏡女王」(藤原鎌足の夫人)を祀った神社と思います。当時は藤原氏の権力も高まったこともあり、このように鏡女王と藤原氏の関係から見るとあり得る話だと思います。
丁度この辺りは西方の奈良町から東に向かう斜面ですから、平城京近くの盆地の底の湿地帯からは外れた場所です。聖武天皇も夜中に洪水が起きると困りますから、昼間は平城宮に居ても夜は安心して眠れる場所に帰って行ったと思います。
若干、不思議なのは、皆さんよくご存じの「長屋王邸宅」です。これは、現在平城京跡にあり、まさに盆地にありました(現在、ミナーラという店舗ビルの場所)。
近くを発掘した際には、あ明らかに水が氾濫したと思われる砂礫層が見つかり、この層の下からは建物の一部が見つかり、砂礫層の上側でも建物の痕跡があったそうですので、やはり水害に見舞われたのですね。
でもこの湿地帯のお陰で、実は、長屋王跡からは大量の木簡が出てきました。木簡の保存には、『水に浸しておく』のが一番で現在の木簡保管も同じようにしています。

滋賀文化財だよりから


これは、我々には幸運だった訳です。すなわち屋敷跡が結構水っぽくて木簡が良好に保存されたのです。
多量の木簡から実在が疑問視されていた『長屋王』の存在も、まさに実証されたのです。
述べたように、高畑地区は、奈良時代には高貴な人達の離宮や別邸があり、さながら、『山の手』ならぬ『山の辺』だったようです。
現在は春日大社の南側斜面に静かに佇むお屋敷街ですが、昔に思いを馳せるとロマンを感じさせます。
東大寺も春日大社も同様に春日山裾の斜面に大規模工事で造られたのですね。

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