見出し画像

★柳生一族の陰謀★柳生(陰)はどうして生まれたか?…6世紀の【大柳生】から【柳生】が生まれた

 一体、柳生はどのようにして生まれたのでしょうか?
 前稿で述べたように、『柳生』とは、【える】地域という意味でした。柳生が歴史上に大きくとらえられるようになるのは、戦国時代から大名として取り上げられる江戸時代でした。
 そして時代劇には不可欠の『柳生家』として数々のドラマに登場してきました。
 最初の稿で述べましたように、柳生が脚光を浴びる700年以上前に『大柳生』には、渡来系の人達が、大和高原の各地に渡来した訳です。ご紹介した『水木遺跡』や、『競馬道古墳群』のようにリーダー格の古墳と他の人達の集合古墳が造られました。これらの古墳は6世紀頃とされています。副葬品には、鉄製の馬具や刀、須恵器と呼ばれる朝鮮半島から製造法が伝わったと言われる硬質土器の類が発掘されています。 下の写真は水木遺跡を撮ったものです。

水木遺跡(6世紀後半の円墳)

丘の斜面で大柳生地区を見下ろす場所にあります。ご覧いただけば分かるように石室の高さは低く、入口に向かう羨道があり、故人を拝めるように階段状に造られています。大柳生には水木古墳のような古墳が100以上あったそうですが、現在では最大規模だった水木古墳だけが残されている状況です。それだけの数のリーダー格の人達がいた訳ですが、現在は行き交う人の姿も疎らな静かな農村にしか見えません。
 一体何が、『大柳生』に起きたのでしょうか?
 一方、その頃には現在『柳生』と呼ばれる地域はずっと小さな集落だったようです。ですから、『柳生』地区には、ただ1基の古墳しか見つかっていません。下の写真は、柳生下塚穴古墳と呼ばれる茶畑の中にある古墳です。

柳生下塚穴古墳

この古墳については、「柳生宗厳がこの塚にあった刳抜式家型石棺を取り出して手水鉢にした記録があります。そのため石舟斎と号したと伝えられています」
今で言うと、墓暴きで石棺を持ち帰ったのでしょうか?でも、この地区には1基しか古墳がありませんから「柳生宗厳」が持ち去ったのは、確実なようです。この地域は、中世までは、『小柳生村』(タイトル上の写真参照)と呼ばれていましたから。
 もう一度『大柳生』に話を戻しましょう。水木古墳や競馬道古墳群があったことは、ここには騎馬の兵隊たちがいた可能性が大きいのです。
 簡単に言えば、【騎馬軍団】が存在して、鉄製の馬具、武器、武具を造っていた、すなわち渡来人の騎馬軍が春日山の東部にいた訳です。
 でもその後は、消息も分からず、忽然と消えて現在の『柳生』地区に出来た勢力が後に江戸時代に大名に上り詰めたのでしょう。
 『大柳生』の騎馬勢力、忽然と消え、変わって後に『柳生』が栄え始める…

小柳生城跡と言われる地


 大柳生が消えた謎、次回はこの謎に挑みます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?