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★柳生一族の陰謀★柳生(陰)はどうして生まれたか?…【柳生】の意味とは?   

 奈良市中心街から春日山に向かうと『柳生街道』の入り口に至る。バスでも30分弱で円成寺(運慶・1作目と言われる大日如来像がある)。この古刹を過ぎ、少し山を下ると『大柳生』という地域に出る。『柳生』はさらにバスに乗って少しばかり行ったところにある。

大柳生地区と柳生地区

 実は、この『大柳生』は、『柳生』地域よりも古く、6世紀頃の古墳が多い地域でもある。小高い場所に首長級の数十メートルの円墳が多く存在していたことでも知られる。さらに、向かう形の山には、群衆墳が存在する。
 その群衆墳の一つに付けられた名称が面白いのである。大和高原の一部を構成する山の斜面に沿う道に『競馬道古墳群』と呼ばれるものが有る。地元で尋ねても、古墳の存在すらあまり知られていないようである。下図緑で表示された山道に二つの古墳群が示されている。

大柳生の古墳群(競馬道古墳群、三角点山古墳群)

この名称の由来を解く鍵は、向かいにある小高い斜面に築かれた『水木古墳』にある。
この水木古墳は、現在露出した羨道や石室を見ることが出来る。
 この水木古墳にある説明板は、下記の写真のようである。

大柳生水木古墳の説明版

「6世紀後半に造営され、ゆがんだ円形。多数の土器、鉄の鏃(やじり)や刀、馬具が副葬されていた。」とある。
 これは、奈良市の平城京遷都より、100年以上前にこの『大柳生』地域には、鉄文化、馬文化をもつ人達が定住していた。
 実は、大和高原には多くの渡来系の人達が入植して主として鉄製の農具や馬具を用いて農業に従事していたのである。鉄製の鏃や刀も出土していることからも一定の武器武装がなされ、馬を使った騎馬としての役割も果たしていたようである。騎馬としての訓練は、先に述べた山の斜面の道を『競馬(きそいうま)』としての軍事訓練がなされていたのであろう。
 一方、柳生地区には、古墳というものはほとんど無く唯一確認できるのは、『柳生下塚穴古墳』であり、

柳生下塚穴古墳

茶畑の中に横穴式石室が開口しており石材も露出しています。径10mほどの円墳であり、玄室は高さ2.7m、奥行き3.6m、幅1.8m。築造は古墳時代後期(7世紀ごろ)とされている(柳生宗厳がこの塚にあった刳抜式家型石棺を取り出して手水鉢にした記録があります。そのため石舟斎と号したと伝えられています)。築造時期も大柳生に比べて後であり、他には古墳が見られない。これからも、『大柳生』地区が開発された後に、『柳生』地区が開発されたものと考えられます。
 さて、『大柳生』とは、どう言う意味で付けられたのでしょうか?地元の観光協会によれば、「大きな柳が育つ地」という意味とのことです。
 【生】という字の意味は、「生(は)える」ということです。【柳】は水分の多い土壌を好み、よく川岸や湿地などに、生えています。自然状態の河川敷では、河畔林として大規模に生育していることもあります。大柳生地区には、泉垣内(かいと)、水木垣内などのちいさな地区が7個ほど現在でも垣内(かいと)の呼称が残されています。
 現在は、人口も減少して静かな田園光景になっています。
 

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