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気鋭の歴史家から【歴史家へのメッセージ】…法隆寺『百済観音像』(3)怨霊となった観音 一体何が起きたのか?

 すでに法隆寺『百済観音』の出自については明らかにしてきた。その中で判明したのが、この美形『百済観音』が、
 ★何時
 ★★誰によって
 ★★★何のために
制作されたか、という事実です。
 発見した『造像記』は、下の写真に示すものです。

百済観音造像記(推定)

表面は、下記の様です。

百済観音造像記(表面)

そして裏面は、下の通りです。

百済観音造像記(裏面)

634年 鵤大寺徳聡法師が父母のために【観音菩薩】を 
 作った。発願した三僧は、大原博士の一族で、百済にあっては王族で、 
 日本で王の姓を名乗った」
 
 結論的言えば、従来歴史家や評論家によって言い続けられた、
  甲午年の解釈(694年)が間違っていた
  正しくは、634年だった
という事実です。このことは、造像記に書かれた鵤大寺の存在から容易に推定できます。
 実は、この『百済観音像』にまつわる【怨霊伝説】をご存知でしょうか?
拙著「法隆寺薬師如来像が語る 飛鳥女帝王朝 聖徳太子と斑鳩宮の悲劇」に詳細は述べてあります。
 法隆寺の高田良信さんの実話が紹介してあります。
 百済観音に関わった人達に不幸が起きていた
という事実です。
 鵤大寺は、聖徳太子が執務した『斑鳩宮』にある『若草伽藍』のお寺だったのです。この伽藍は焼け落ちて現在の法隆寺の地域の地下から発掘されています。
 聖徳太子が無くなった後の、
  634年蘇我入鹿によって斑鳩宮が急襲された
という事実です。
 これによって聖徳太子の上宮一家は滅亡しました。

 この際に、鵤大寺の僧だった百済からの人達も犠牲になったと推定されます。
 『百済観音』は運び出されて無事に残りましたが、混乱の中で像と造像記が離れ離れになったと想像できます。
 実は、このような悲劇に『百済観音』は、見舞われていたのです。

 寺にとって、一番大切なものは仏像なのです。
火災の際には、まず、仏像が避難する
ことになります。
 以上、今回の記事にはどこにも矛盾する事実はありません。

 紀年の推定を誤ると、真実が見えなくなります。

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