ジン・ハウス・ブルース
私は菜の花畑で生まれた。海のちかくだった。潮風にくすぐられて菜の花は黄色くうねっていた。
生まれた場所で酒を飲むのは変な気分だ。土曜日の午後の定位置は、決まって波打ち際だった。酔いどれの溜息はアルコールのにおいをさせながら空にのぼる。桟橋の先の釣り人はやがて夕焼けに掻き消される。海岸線に夜が落ちた。
波の音を聴いているあいだだけ、私はあの頃に戻れる気がした。海は、孤独な人間に優しかった。砂浜に突き刺したジンのボトルが月あかりに鈍く光る。ここは、私の、Barだ。
Barにはひとりの客もない。私だけが唯一の客で、そうして私がマスターだ。海はやさしくなだめるように囁く日もあった。一緒にすすり泣いてくれる日もあった。だからこの店にレコードなんて必要ない。いつしか私が眠りに就いて、涙が乾いたら店じまいだ。
「お隣、空いてるかしら。」
初めて私の他に客が訪れたのは、この店が一周年を迎える頃のこと。メイクの濃い女だった。ブランド物のバッグから缶ビールを取り出して、青く塗られた長い爪を栓にかける。
私は何も問わなかった。Barのマスターはいつだって寡黙な男に決まっている。私はいつものようにグラスへジンを注いだ。それからふたりして海を眺めていた。いや、ひとりで海を見ている人間が、偶然ふたり並んでいたというのが正しい。女がビールを飲む時の喉を鳴らす音が少し耳障りなことを除けば、この店は通常営業だった。
「火、お借りできる?」
女が沈黙を破った。私は鞄をさぐり、小さなマッチ箱を取り出す。だいぶしけていたらしい。何度か擦るとようやく火がついた。女は煙草をくわえると、身を傾けて火を受け取った。
「あなたは吸わないの?」
「もう二年は吸ってないね。」
「そう……。」
女はまた海の方へ向き直った。飲み干したビールの缶に灰を落とした。
それから女はこの店の常連客になった。次の土曜日も、その次の土曜日も、女は決まって昼が終わり、夜が始まる前に現れた。女はいつも二本の缶ビールと、三本の煙草を吸い終えると帰って行く。
「人生でいちばん幸福だったことって何?」
或る日、女がそんなことを尋ねてきた。
「さあね。そんなもの、たぶん生まれたときくらいじゃないか。」
「へえ、どこで生まれたの?」
「菜の花畑、……らしい。」
女は笑った。赤いルージュの隙間から白い歯が覗くのを、私はそのとき初めて見た。
「お母さん、きっと面白いかたなのね。」
恋人は、海が好きなひとだった。週末にはふたりでよくこの海に訪れた。色白で、髪の毛は肩まであって、煙草の煙の苦手な、ひとつ年下の女性だった。たぶん、愛していた。少しずつ彼女の顔は思い出せなくなってきているけれど、最後に言われた言葉は憶えている。
「——またいつか。」
「それって、さよならとおんなじことじゃないの?」
私は誰にも打ち明けたことのなかった苦い記憶を、いつしかこの女の前で口にするようになっていた。女がこの店に来るようになって、もう何度目の土曜日だろう。
「前に君が、いちばん幸福な日はいつだったか尋ねてきたけど、逆に、いちばん不幸な日だったら簡単に答えられるよ。彼女と別れた一年半前のあの日から、ずっとだ。ずっとずっと、毎日がずっと、いちばんの不幸な日なんだ。」
「……かわいそうに。」
女の眼が潤んだように見えた。私の眼も潤んでいた。
「あげる。」
女は煙草を差し出した。私は黙ってそれをくわえた。
「吸うんだ?」
「もう、いいかなって。」
忘れることは難しいけれど、胸の内を煙でいっぱいにすることならできる。初めて吸うキャスターの甘い香りは、おしまいで、はじまりの夜に、相応しいような気がした。
知らず知らずのうちに、Barは二周年を迎えようとしていた。また、菜の花の季節が来ていた。私にとってこの店は、もう、慰められるための場所でも、すすり泣くための場所でもない。小粋な波音のメロディと、月あかりの関節照明、座り心地のよい砂浜のソファーに、会話のできる常連客の、すべてが揃った最高のBarなのだ。
「もうすぐこの店二周年なんだ。」
「ええ。」
「お祝いパーティーでもするか。」
「そうね。」
「そういえば、名前訊いてなかったね。一年も話してて、お互い名前も知らないなんて。」
「……知らない方がいいわ。淋しくなるから。」
女は海を見る。長い睫毛がふるえている。
「私、来週結婚するの。実は、一年前から決まってたんだけど。めまぐるしい毎日だったけど、ここに来て、あなたと話していると、不思議と気持ちが楽になったわ。だから、あなたには凄く感謝してる。」
「それじゃあ……、」
「うん。またいつか。」
その夜、三本目の煙草を吸い終えると、女は静かに海岸線を歩いて行った。一度だって振り返らなかった。私は、女の残したキャスターを吸いながら、宛名のない恋文を書き、空になったジンのボトルに入れて、そっと海へ流した。