忘れないで

私のいない故郷では、今もそれぞれの暮らしが続いている。そこに私がいないという状態だけが、途切れることなく続いていって、いつか私がいたという事実だけが、額縁の風景みたいに色あせて飾られて、彼らは今日も、変わらずに生きている。憂鬱をこぼしながら週末には酒を交わし、夜と音楽に包まれながら生きている。ひょっとしてみんな、私がいなくたって平気なんじゃないか? そんな風に思う夜もあった。けれど私が望んだことだ。ときどき故郷に帰るたび、涙に歪んだスクリーンに、私を投影して欲しくなんかない。私はいつでもあの夜のつづきを始められる、そんな彼らとの間柄を愛した。そうだ、淋しいんだ。私が淋しいのと同じように、彼らだって淋しいんだ。その淋しさが私の邪魔をしないように、平気なふりをしてくれているだけなんだ。そうやって彼らが、私のために私を忘れようとしてくれることが、また淋しい。永遠だと思っていた夏の陽射しが、にわかに色づき始めたとき、彼らは何を思っただろう。私という時間の渦に巻き込まれて、脱ぎ捨てた青春の外套を羽織り直した彼ら。繰り返される寛ぎの中で、ふいに差し迫った夕暮れには、もう逃げ場などなかった。みんなガーネットに染められて、幸福はたちまち削ぎ落とされ思い出と名を変えた。夜行列車で発つ私を見送るに、夜は深すぎただろう。私は今でも、大きな忘れ物をしたような気持ちになる。ひょっとして、自分自身が忘れ物であるような気さえする。戻りたいのか。決して不幸なわけじゃないのに。進むことが怖くなったとき、人は思い出に縋るものだ。だが、思い出が果たしてくれるのは、せいぜい酒の肴くらいで、決してその中に飛び込んで泳ぐことなどできやしない。私のいない故郷で、涙している人がいることを思ったとき、都会のビル風に吹かれながら、ふと立ち止まってしまうけれど、それは気のせい、願望だ。ああ、涙しているのは、私だった。

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