一等室の夜
思い出という箱を取り出して、初雪のように薄く積もった埃をはらい、蓋を外す。故郷やら、初恋やら、さまざまな記憶の欠片が無造作に詰め込まれたその箱を探ると、ずっと底の方に、長らく陽の光を浴びていないひとつの思い出があった。
それはまだ高校生だったころ。私にはあんまり友達がいなくって、夢もなく、ただ家に帰るために家を出て、教室の隅で夕暮れを待つばかりの日々を送っていた。人と話すのがたまらなく苦手で、ふいにクラスメイトに「おはよう」と言われたら、とっさに返す言葉が見つからず、たとえ見つかったとしても声にできず、うつむくだけの哀しい少年であった。
部活もバイトもしていない私には、当然他人と関わる機会がなく、家に帰ってはベッドに横たわりじっと音楽を聴く。天井をながめる。ときどき泣く。うらぶれた日々の繰り返しは、余計に私の行く先を歪ませた。陽のあたる路を歩けなくなった。夜を羽織り、孤独を抱いて眠るばかり。
そんな私が、ある時、恋をした。思いがけず降ってきたような出逢いだった。出逢ったはいいものの、その恋をうまく実らせる術を私は持ち合わせていなかった。目が合うと喋れずに、目が合わずとも喋れずに、夜毎電話をしてもお互いの衣擦れの音に耳をすませる不思議な間柄。
大人への道にはほど遠い私だったが、そんな高校生の冬に、ひとりで大阪へ出かけることになった。好きな娘へ逢いにゆくためだ。田舎町で育った私は電車にも乗ったことがなく、夜遊びのひとつもしないことから翻って親を心配させたほど。そんな私が大阪へ行くという。ひとりきりで。
ちょうど今と同じくらいの時期だっただろうか。私はとても痩せていて寒がりなため、大層な厚着をして旅立った。心配半分、喜び半分の母親が運転する軽自動車で、夜の港まで送ってもらったことを憶えている。大阪まではフェリーで行くことにしていた。当然乗るのは初めてだ。
強い潮風にコートをはためかせながら、心細い気持ちで、母親に背を向けた。細い階段を渡って、船内へ入る。ぐらぐらと揺れ続ける足元が、私の夢心地を余計にかき立てた。
突然決まった旅程で、しかも年の瀬だったためだろうか、手頃な船室はすべて埋まっており、唯一空いていた一等室に泊まることになった。高校生には痛い出費だ。しかし、人生にそう何度もない経験だろうと、私は気を大きくして、その夜だけは王様のような気分で水上の旅を楽しんだ。といっても、疲れ果てて、すぐに寝付いてしまったのだが。
大阪へ着いたのはまだ夜が明けて間もないころ。あまりの寒さに震えが止まらなかった。いいや、緊張していたせいもあるかもしれない。迷いながら、駅の中を行ったりきたり。目当ての駅に着いたころ、ようやく辺りには思い描いていた都会の喧騒が戻っていた。見知らぬ街でスーツケースをゴロゴロ引きずって、そのうちに雪が降り始めた。
毎年、初雪の季節になると、北風から少しだけあの頃の香りが漂ってくる。帰りのフェリーで、安い雑魚寝の部屋で薄い毛布に包まったこと、帰り着いた故郷の港の朝焼けが、たまらなく美しかったこと。思い出すことに、もはや意味はない。あの旅で私の何が変わったのか、それとも変わらなかったのか、今となってはそれすら思い出せないのだから。
「これ、いつもらったんだっけ……」そんな誰かのお土産みたいに、なぜだか分からないけどなんとなく捨てられないものが、心の中にひとつふたつはあるというだけ。こんな風に少しだけ酔っぱらった夜には、思い出という箱から取り出したそんな記憶の欠片を眺めてみては、また箱の奥に戻すのだ。
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