だれからも愛されないということの 勝手傲慢を手放しつつ泣く

 はじめに。
 このnoteは大層なメッセージだとか、ためになる話だとか、そういったものは一切ありません。
 ただ私の喪失を然るべき場所にしまうための、備忘録のような、自省のようなただの書き殴りです。
 サウナの話もありません。

 昨年の10月、母が亡くなりました。
 死因は不明。メスを入れなければ分からないし、入れても分からないかもしれない。そういった医師の判断により、解剖はしませんでした。事件性もないため、無用に体を傷つけてしまうことを思えば正しい選択だったと考えています。

 私は他人に冷たく、関わること自体を億劫がり、わがままで自分勝手です。
 そんな娘の私とは正反対で、母は人生のほとんどを人に尽くし過ごしていたと思います。だからこそ、誰からも愛された人でした。
 そんな母でも、人生の幕引きは誰にも看取られず独りきりであったことを、思い出しては今でも胸を抉られます。母とは住まいを別にし遠方で暮らしていた私には、その痛みを感じる資格もないかもしれません。それでも、事切れるその瞬間まで母が何を思ったのか、怖かっただろうなだとか、遺していく私のことを考えたりはしたのだろうかと、嫌でも順応せざるを得ない日常で今も答えの出ない想像をしています。

 母は誰かのためなら己の犠牲を厭わない人でした。しかし、キャパシティを超えた母の人助け、そのツケを払うのはだいたい私。それで親子関係も一時期拗れ、縁を切って地元を出た日のことは今でも忘れません。
 事務手続き上、どうしても母とのコンタクトが必要になり、電話をしてから関係の雪解けを迎えたのは、私が引っ越して6年後。そこから毎年お正月には母の元へ帰省し過ごしました。母が帰らぬ人となったのはその3年後である昨年。
 母と和解できぬまま死別する――そんな地獄だけは免除してやるか。最後の数年間は、神様が与えてくれた時間だったのだと思います。


 未婚で一人暮らし、おまけに人類が苦手な宇宙人の私は、いつも社会で独りぼっちだった気がします。外面だけはいいので、歳をとるうちに表面上の社交性はまあまあ備え、友人と思ってくれる相手は少ないながらもいたり、勤め先でも丸くやって生きてはこられた。けれど、心を許せる相手は母のみでした。
 そんな私を母は1度も蔑みもしなければ、憐れみもしなかった。「あんたはなんだかんだで意地があるから、やろうと思ったことはやりきるもんね」と、私の独りぼっちの未来予想図を肯定すらしてくれました。「あんたは強いししっかり者だし」なんてことも言われていました。いやはや、親って本当に盲目なんだなあと呆れたものです。
 そんな母でしたが、亡くなる1ヶ月前くらいにぼそりと電話で言い出したことがありまして。

「……そろそろ残り少ない毎月の貯金だけでもあんたに振り込むかな」
「突然どんな風の吹き回しさ」
「お母さんが死んだらあんた独りだし……なんだろうね、こういうこと思うってことはお母さんもそろそろなのかなあ」

 心臓が潰れそうな気がしたのを覚えています。何言ってんのさ~と笑い飛ばしたけど、笑い飛ばしながら涙がボロボロ出ました。電話で本当に良かった。泣いてたことはたぶん母にはバレていなかったと思います。
 直感したんですよね、ああこれ、近々なんかあるだろうな、という虫の知らせ。今までも「お母さん長生きできないからさ~」なんて冗談めきつつ言っていたことはありましたが、込み上げる強い不安と予感はその日が初めてでした。
 この出来事の1か月前、私は地元を出て以来ずっと住んでいた築40年のアパートから引っ越しました。母はというとその手伝いにわざわざ来てくれて、ともすれば夏バテ気味の私よりずっと活発に作業をしてくれました。
 そんな母の元気な姿には結びつかない死の足音、そりゃもうカツカツとよく響く。
 なのに私は1度も「心配だよ」「お母さんが死んだら嫌だよ」って言えませんでした。結果、元気だった母はたった2ヶ月で亡くなりました。
 母の元へ駆けつけた私に親戚一同が言ったこと。「最近お母さんは体調崩してた」「食べては吐いての繰り返しで、本人も『胃がんかもしれない』と不安がっていた」「顔色が異様に悪かった。病院に行けと言った矢先のこと」とまあ情報が出てくる出てくる。
 母は電話越しの私にだけは、一言もそんなことを言ってくれませんでした。
 そして母の周囲にいた誰も彼もが語るんですよね。「お母さんは、あなたのことだけが心残りだったと思うよ」と。


「だれからも愛されないということの 自由気ままを誇りつつ咲け」
 枡野浩一さんの、私がとても好きな短歌のひとつです。

 私たちは、言葉にしない親子だったのだなあと思います。
 今にして振り返ると、一人娘の私が本当は弱くて頼りない人間なのだと母はわかっていた気がします。それでも母は、私の咲かせんとする誇りを守ろうとしてくれていたのかもしれません。たぶん母が生前の時点で体調不良を私に洩らしなどしていたら、私は不安で取り乱し、なおかつその不安を打ち明けるにはあまりにも意地っ張りすぎて、結局誰にも知られず病んでいっただろうことは我ながら想像に易い。この件だけではありません。弱い私が「強い私」でいられるように、母は言葉にしないことで私をおだて続けてくれていたのかもしれない。例えりゃそんな私の無様さは花どころか、水やりを忘れて萎れた再利用の豆苗ですよ。こちらが想像する以上に、きっと母にとっての私はいつまでも「守らねばいけない可愛い娘」だったんでしょうね。
 そんな母が僅かにこぼした孤独や死への不安にも、ろくに言葉をかけぬまま終わってしまったことが一生の後悔です。「お母さんが死んだら、あんたはすっきりするだろうけど」と自嘲気味に言っていた言葉を、もっと強く否定してあげればよかったな。母が言ってくれた沢山の「大好き」に、私は1度も同じ言葉を返してあげなかった。親不孝ここに極まれり、です。

 親はその死をもって子に最後の教育をするとは本当で、母の死以降、私の中では明確な変化がありました。中でも、人との縁の大切さに気づいたのがとにかく大きいです。
 私の中で「友人」の位置づけって、「友人とは思ってくれているだろうけど、他人だもんね」くらいだったんです。
 母の死の報せを受け、親戚が私を迎えに来てくれるまでの間、私の脳みそは悲しみと混乱でおかしくなりそうでした。その時、人生で初めて自分からその友人数人に弱音の連絡をしました。1年に1度、ひどいと数年に1度しか連絡を取らないような不精の私に、彼女たちはすぐに電話をくれてずっと話を聞いてくれたり、地元にいる子は母へ線香をあげに来てくれ、私を抱き締めてくれた。都合よく頼るなんて勝手だなあと我ながら思いました。しかし、思えば私がお金も力もない中、なんの相談もせず何とか準備を進め「地元を出ていくことになった」と打ち明けた時、「なんでもっと頼ってくれなかったの?」「何も出来なかった自分が悔しい」と泣いてくれたのもこの友人でした。
 格好悪いものです。やはり私は、初めから誇りある花なんぞではなく、誰かから水を貰わねば萎れる豆苗なわけです。それがたぶん、母のくれた最も大きな教え。「私は独りきりで生きていくから」と生前の母にはよく言っていたものですが、そんな私に言葉で何かを言っても聞く耳は持たないことも気づかれていたかもしれませんね。実際持ちませんでしたし。あはは。本当に無様です。でも、私は花より団子よろしく、花より豆苗の方が好きです。美味しいし!
 今では人が変わったように、マメに連絡を返すようになりました。彼女たちに何かあった時は、生前の母がそう生きたように全力で助けたいなと思います。もしかすると、ようやく私は人間としてのスタートラインに立ったかもしれません。ノルディック、宇宙人やめるってよ。このネタ令和じゃもう知らん人多いよね。

 もうすぐ母の死から半年が経ちます。喉仏だけが入った小さな骨壷と共に並ぶ写真の母は、和解してから亡くなるまでの三年間、私が人生で最も幸せな時間を過ごした頃の母の姿で笑っています。手を合わせながら、生前言えなかった言葉ばかりを伝える日々です。
 「あんたのお母さん、最後の贈り物にあんたに逢いに行って引越し手伝ってくれたんだろうねえ」と親戚のひとりに言われました。そんな母が間取りをものすごく気に入ってくれた新居で、ようやく悲しみをなだめながら日常を過ごせるようになってきています。泊まりに来たがってたな、母。泊めてあげたかったな。母が今後遊び来た時のために、2人がけのソファだって可愛いカトラリーだってわざわざ買ったのにな。白髪頭でしわくちゃになった母に、会いたかったなあ。お母さん、大好きだよ。色々あったけど、またお母さんの子供に生まれたいよ。ひどいことばっかり言って、大事なことは何ひとつ伝えない、ろくでもない娘で本当にごめんなさい。
 様々な思いと共存しながら、今のところ健康な私はいつか写真の母の年齢を追い越すのでしょう。追い越しても、私はいつまでも母を恋しがってると思います。母と再会出来る日を心待ちに、今世をそれなりに全うします。今際の際には迎えに来てくれると信じられる私にとって、だれからも愛されないということの自由気ままを誇りつつ咲く人生は、次の機会になりそうです。今の私には、この短歌は少し格好よすぎますからね!
 最後に、枡野浩一さん、最高短歌をパロってしまってすみませんでした!!!!! 全力土下座!!!

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