ヨルシカのヨヒラの部分的感想
ヨルシカの「ヨヒラ」という作品には「君を忘れたのさ」と「君だけを覚えている」という一見相反するような歌詞がある。この意味について私なりに少しばかり考察してみようと思う。
そもそも、「忘れる」とはどういうことなのか。例文を上げつつ考えてみたい。
「もしかして、僕のこと、忘れちゃったの!?」
こんな例文があったとする。この場合、「忘れる」は(すぐに出てくる)記憶からなくなるというような意味になろう。
「津波の被害を忘れてはならない」
こんな例文もある。この例文における「忘れる」は果たして記憶からなくなるという意味になるのだろうか。「震災の記憶」などという表現もあるから、ある程度は確からしそうな気もする。しかし、私はこれは別の意味としても取れる気がするのである。記録としてなくなるという意味である。記憶はあくまでも主観的なもので経験していない者に引き継ぐことは不可能である。だが、その生々しさをデータ、記録として残すことは可能だ。今回の例文でいえば、津波の高さを記録に残すとか、話を伝承するということだ。(記憶を言葉で表現した段階でそれはもはや記録である)
さぁ、どちらの「忘れる」がこの歌詞に合うのか。私は前者であるように思う。それは「君だけを覚えている」との整合性と歌詞全体から導き出したものである。「ヨヒラ」はところどころに俳句や自由律俳句をオマージュした歌詞がある。「ヨヒラ」という言葉自体も俳句でよく使われる紫陽花の別名である。俳句は日常のささやかな楽しさ、感動を描き出す文芸ジャンルである。「ヨヒラ」もそのささやかなイメージが紫陽花よりもある。私はここに「忘れる」を読み解く鍵があると考える。もしかしたら、主体は俳句に細かなことでさえ忘れられない相手との思い出を籠めることで記録に残し、未練なく、記憶から削除しているのではないか。でも、それは後者の意味では「忘れない」ということだ。だから、「君だけを覚えている」と表現されたのではないか。皮肉なことに、主体は忘れることで永遠に忘れないようになってしまったのである。
これが私の思う「ヨヒラ」の「忘れる」である。補足にはなるが、「ヨヒラ」のMV には彼岸花が咲いている。もしかしたら、「君」はもう亡くなってしまっていて、この記録がなければ主体だけが記憶に残すだけになってしまうような状況だったのかもしれない。だが、主体もこれから生きていくために前向きに生きなければならない。だから、記憶から記録へと変化させることで主体と君が生き続ける世界を創ったのかもしれない。
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