7-4. 作品鑑賞と主客の共演 【ユクスキュル / 大槻香奈考】
作品を鑑賞する際には、美への共感と共に、ものがたりへの共感が発生することでしょう。そこで私は考えるのです。「絶対美」は限りなく非存在に近いものなのではないかと。
「全ての人間が美しく感じる」ということは、全ての人間が同じ価値観・思考・嗜好・見え方・パースペクティブを持っていることが前提となります。しかし環世界の例が示すように、全ての主体にとって同じに機能する環世界は存在せず、よって「完全に同じように感じ取る」ということは不可能であると考えられます。
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仮に風景(風景画)の美しさについて考えてみます。人間に限って言えば、それが「風景であること自体」は共通して認識できるでしょう。
しかし美しさの指標がア・プリオリ(カントが提唱した「どんな主観にも共通するあらかじめ存在している規格」のこと)に存在するとは考え難いと言えます。
物自体の存在が不明だろうが確実だろうが、それを見る人間の側のフィルターはそれぞれだからです。(だからといって絶対美を求めることが不毛かどうかについては、まだ答えは出せませんが…)
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スピノザの言葉を引用してみましょう(太字はナツメによるものです)。
善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念、にほかならない。
なぜなら同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない。――『エチカ(下巻)』より
全ての作品は、観る人によって善くもなり悪くもなり、そしてどちらでもないものにもなるのです。絶対的な評価は無く、初見の人にとってのその作品は「ただそこに在るもの」にすぎないのです。
ですからほとんどの人は、絶対美ではなく、相対美や共感度(もしくは知名度の高さや著名人らの紹介・解説による受動的な感動)に基づいて作品鑑賞をしているのではないでしょうか。
しかし同じ作品であっても、前述した「大人になってからの蛹化」を経験した後には、また新たな発見があることでしょう。
作品鑑賞の面白さは、こうした主客の共演による環の誕生、そして相互的な進化が生まれることに一因があるのではないかと、私は考えています。
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