ひとの器とは何なのか?
おはようございます。今朝も勢いで書きます。
人に対して「器が大きい」とか「器が小さい」と言うが、人の器とは何だ?器を大きくしたいと思ったときに、何をどうすれば大きくできるのか?また、器の大きな人間になっていくために必要な条件はないのか?
自分が時間やお金もかけてやったことに対して、他の人から自分が思う以上に評価されると嬉しくなり、一方で、まるで自分がやったことのように他の人に話しているのを聞くと腹が立つ。手柄を横取りされているような気がするのだ。
反対に、他の人が時間やお金をかけてやってくれていることに対しては、当たり前のようにふるまい、その人にきちんと礼も言わない。時と場合によってはまるで自分ひとりでやっているかのように話している。
自分の胸に手を当て考えてみたとき、このようなことを思い出すことはないだろうか。
私にはある。
例えば、食事のあとで家族の分もすべて食器を洗ったとき、家族から何も言われないと寂しくなり、また、「家事なんだから家族は誰でもするのが当たり前でしょ。」のようなことを言われるとカチンときてしまう。
確かに、その通りなのだが素直に認められない。
一方で、普段、食事を作ってくれていることや皿洗いをしてくれていることにお礼をキチンと言えているか、あるいは他の人にその人が「いつも本当によくしてくれている」といったことを言っているか。
言えていない。
両親が入院したり施設に入るようになって、散らかっていた実家を掃除したこと、またそれまで父がしていた仕事を引き継いで自分なりに人に聞きながら、時間も使い、体を動かしながら手配したこと。このようなことについても同じようなことがある。
自分がやったことは過大評価して欲しいし、認めて欲しい。
一方で、他の人がやってくれたことは、当たり前と思い、感謝の気持ちも持てずに、きちんとお礼も言えてない。過小評価している。
これは私だけではないと思う。どうだろうか。多くに人は同じではないかと思う。
そして、これを逆にできる人が器が大きい人ではないだろうか。
自分がやったことは過小評価し、
人がやってくれたことは過大評価する。
つまり、
器が小さい人とは、
自分がやったことは過大評価し
他人がやったことは過小評価する。
一方で、
器が大きい人は、
自分がやったことは過小評価し、
他人がやったことは過大評価する。
そうすると器が小さい人と器が大きい人で、まわりにいる人を比べてみるとまったく違った人がいるようになるのではないだろうか。
器が大きい人のまわりにいる人は、その人にお願いされることであれば聞こうとするし、その人のことを好きと思っている人が集まる。
器が小さければ小さいほど、協力的な人はいなくなり、もしかするとその人の周囲には誰も人がいないといったことになるかもしれない。
器が大きい人は、たくさんの人を動かせる人になり、器が小さい人のまわりには誰も人がいなくなる。
生きるとは、修行だ。
器を大きくすることにチャレンジをして今日もステキな一日に。