見出し画像

常設展示作品の名を冠した美術館―原爆の図丸木美術館―

志田康宏(栃木県立美術館学芸員)

1. 常設展示作品の名を冠した美術館

 常設展レビュー連載という前例のない試みをしようとすると、どの館を取り上げるべきか非常に難儀する。ひとくちに常設展と言っても規模や内容、想定しているターゲットなど、各館によって多様なアプローチがあるためだ。そもそも常設展を行っていない館も少なくない。
 そんな中で、この企画に最適な美術館に思い至った。埼玉県東松山市にある原爆の図丸木美術館である。丸木美術館は、丸木位里・俊(赤松俊子)夫妻の共作である連作《原爆の図》を常設展示する美術館として1967年に夫妻が創立し開館した私立美術館である。丸木美術館の特徴は、常設展示されている中心所蔵品の作品名を館名に冠した美術館だという点である。このような美術館は他にあまり例がなく、常設展示のレビューに最適な美術館であるといえる。


2. 原爆の図


1原爆の図2F

2階展示室 《原爆の図》 展示風景

 《原爆の図》とは、広島出身の日本画家・丸木位里(1901~1995)と、その妻で洋画家の丸木俊(赤松俊子、1912~2000)が、広島に投下された原子爆弾による被害や、核のない世界への祈りを描いた全15点の連作である。夫妻は、戦前・戦中には東京で画家として活動していたが、1945年8月6日に広島に原爆が投下された報を受け数日のうちに広島に入り、一面の焼け野原となってしまった故郷の景色を目の当たりにしながら、救援活動に奔走した。位里の親族にも犠牲者が出ていたという。
 画家として、この悲劇を繰り返さないためにこの惨状を絵にして世に伝えるべきと考えた夫妻は、1950年に《原爆の図〈第1部 幽霊〉》を発表した。夫妻は作品を携えて日本全国を巡回し、公民館や寺院、学校の体育館などで展覧会を開催し、被爆の実情を広く世に伝えてまわった。それから32年に亘り、夫妻は全15部におよぶ《原爆の図》連作を描き上げたのである。丸木美術館では《原爆の図》第1部から第14部までを常設展示している(〈第15部 長崎〉は長崎原爆資料館蔵)。
 奇妙な形をした美術館の入り口で受付を済ませ、個性的な装飾の施されたファサードを抜け階段を上ると、2階の展示室から《原爆の図》の展示が始まる。とにかく、すごい絵である。皮膚がただれ、真っ黒に焼け焦げ、血を垂らしながらうめきまわる被爆者の群像が、リアルすぎるほど克明に描き出された多数の屏風絵が、展示室を囲うように配され、ものも言わずに屹立している。世の不条理や苦しみを描き出した絵画は数あれど、これほどまでに心に訴えかける作品は他にない。
 美術館は人里離れた立地にあるため、ひとりで訪れるとひっそりとした環境でこの大作と向き合うことになる。夏であれば、外から聞こえる蝉の声に導かれ、作品の深い世界に引きずり込まれる。下手をすると、この場にいることが耐えられなくなるかもしれない。それほどまでに、強烈なインパクトとメッセージを黙示する作品である。


 《原爆の図》は、それぞれ縦1.8m×横7.2mサイズの四曲一双屏風である。考えてみれば、これほどたくさんの屏風の中を歩き回る体験はなかなかないものである。日本画に強い美術館でも、屏風だけを10点以上常設展示している館はなかなかないだろう。屏風というのは不思議な絵画で、本来は「風」を「屏(しりぞ)ける」ための家具の一種であったが、そこに絵や文様が描かれることにより装飾的価値を持つようになったものである。また部屋や空間を仕切るための間仕切りや目隠しとしても用いられるため、人間の身体より大きなものになったという特性がある。人体より大きな調度品であり、畳敷きの日本家屋の中で用いられていたため、屏風に描かれた絵画全体を鑑賞するためには、距離を置いて正面から眺めるか、屏風の前を歩いて移動するという身体運動が発生する。また襖絵などと異なり蛇腹に設置されることが多いため、一方の角度からだけでは影になってしまい見えない部分も発生する。そこにもう一方からしか見えない絵を描きこむことにより、右からは見えていなかった人物や花鳥が左に回った途端に見えてきて、群像や風景の中にストーリーが生まれるというような屏風特有の仕掛けも施されるようになった。
 位里は、そのような屏風絵における「身体の横方向の移動により視線を移動させて鑑賞する」性質を十分に理解していたのだろう。《原爆の図》にも、右から左へ、また左から右へという視線移動の仕掛けがどうやら施されているようなのだ。
 例えば〈第一部 幽霊〉では、重々しく歩を進める人群れが画面左端から画面右に向かい、力尽きて倒れ込み重なり合うまでの惨状が描かれている。この左から右への視線誘導は、展示室入口から奥へと向かう鑑賞者の身体移動と一致している。
 一方で〈第八部 救出〉では、画面右半分を覆う燃え盛る炎の中から人々が救出される方向は画面左である。このことは、人体を描く黒色と炎の赤色のみで描かれる右隻に対し、生き残り救出される人々が身につける「もんぺ」の藍色が特徴的な左隻という色彩対比によっても強調される。沖縄戦での悲劇を描いた夫妻の別作品である《沖縄戦 読谷三部作》(佐喜眞美術館蔵)のうち〈チビチリガマ〉〈シムクガマ〉でも、画面左端に設置された洞窟入り口と、洞窟内部の様子の対比が強調されて描かれている。
 国やジャンルによって相違はあるようだが、一般に、漫画や舞台の演出において、左(下手)向きの視線は未来・希望を表し、右(上手)向きの視線は過去・絶望を表すとも言われる。
 その法則を逆に利用すれば、〈第二部 火〉や〈第六部 原子野〉のように、燃え盛る炎やまき散らされた放射線の中で、右にも左にも行くことが出来ず、生き残る希望も倒れ去る絶望も見出せないまま彷徨うことしかできない状況を記号的に描き出すことも可能である。
 展示室の入り口には、美術評論家・河北倫明による『原爆の図』の短い評論文が掲示されている。そこでは《原爆の図》と「地獄草子」との描法上の共通点が指摘されているが、その指摘はほぼ墨一色で描かれているという描法に限定したものではなく、上記のように作品の前で身体を移動させて絵巻物のように鑑賞していく鑑賞法のことも射程に収めていたのではないだろうか。《原爆の図》とは、人体よりも大きなサイズの絵巻物であるとも言えるのかもしれない。
 このように大きな視線誘導を伴う大画面の作品に対峙する際の鑑賞する身体の使い方は、平面化され縮小された作品画像をウェブサイトや図録で眺めているだけではわからない。実際に展示されている実物の作品の前を直接歩いてみないとわからないものだ。月並みな謂いにはなってしまうが、絵画体験は展示されている実物を前にしないとわからないものである。


2原爆の図1F

1階展示室 《原爆の図》 展示風景

 丸木美術館が所蔵する《原爆の図》14点は大きく2つに分けられる。広島の原爆被害を描いた2階展示室の8点と、1階に展示された6点である。同館の岡村幸宣学芸員によれば、増築が繰り返された館の中で、丸木夫妻が最初に建てたのがこの1階展示室の部分であるという。
 1階に並べられた《原爆の図》は、1954年、アメリカ軍によるビキニ環礁での水爆実験で被ばくした焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」と焼津の人々を描いた〈第九部 焼津〉や、戦争反対を願って全国で展開された戦後の署名運動の様子を描いた〈第十部 署名〉など、作品1点ごとに異なるテーマで描かれている。
 1階展示室では、2階展示室で見出された鑑賞者の身体の横方向の移動とは異なり、前後方向に異なる視線があるように感じた。それはいわば、「あちらとこちら」を示す視線である。
 〈焼津〉では右左隻を明確に分割し、「海上の第五福竜丸」と「焼津の漁師たち」の対比を明示している。放射能を浴び、死者までも出し直接の被害者となった第五福竜丸と、彼らを港から送り出した地元の人々の対比は、戦後の出来事でありながら、まるで「戦地」と「銃後」を描いているかのようである。また、広島を描いた連作前半にはほとんどなかった、画面正面をまっすぐに見据える「描かれた人物の視線」は、視線を見つめ返す「鑑賞者の視線」の存在を逆説的に表している。右隻左端にはみ出した2人の少女は、画面に背中を向け、鑑賞者と同じようにまっすぐに海上の船影を見つめている。
 〈第十二部 とうろう流し〉は、毎年8月6日に広島市内を流れる川で行われる灯籠流しをモチーフにしたものであるが、画面に無数の灯籠が配され、格子のように画面全体が覆われた、きわめてユニークで装飾的な画面を持つ作品である。灯籠流しは死者への祈りを込めて行われるもので、「あの世」と「この世」の橋渡しをする行事である。また、灯籠流しによって鎮魂と祈りを捧げる行為は、「過去」と「未来」を明確にする行為でもある。網の目のように画面を覆い、鑑賞者が画面の向こうに入っていけないように感じられるのも、そのような「あちらとこちら」を隔てるメタファーのようにも感じられる。
 〈第十三部 米兵捕虜の死〉は、広島の原爆によって、日本軍に捕えられていたアメリカ軍の捕虜も被爆し、死んでいったという歴史的事実を描き出した大作である。「被害者」と「加害者」の対立を内側から破壊する画題であり、戦争を語り、描く行為に内在する極めて重要な問題を提起した作品である。
 このように、1階に展示された《原爆の図》後半の連作は、単に現地の惨状を描くだけでなく、様々な対立や関係性を巧みに描き出し、それによって二者の対立そのものに風穴を開けようとする作者の意図が読み取れるように感じられる。


3. 夫妻の共同制作

3共同制作

1階新館ホール 《南京大虐殺の図》《アウシュビッツの図》《水俣の図》展示風景

 一歩その展示室に踏み込めば、四方に屹立する巨大な絵画に描かれる凄惨な光景と、画面から訴えられる強力なメッセージに圧倒されること間違いない。《南京大虐殺の図》《アウシュビッツの図》《水俣の図》《水俣・原発・三里塚》の巨大な4面の絵画が、体育館のような広い空間の四面に聳え立ち、壁のように取り囲まれる展示空間である。
 なかでも1975年作の《南京大虐殺の図》は、単に戦争の悲惨さを世に伝えるだけでなく、夫妻に起こった極めて象徴的な体験をきっかけに描かれることになった作品として重要である。1970年、アメリカで《原爆の図》を展示した際、夫妻は展示を主催してくれたアメリカ人大学教授から「もし中国人の画家がやってきて『南京大虐殺の作品展をやりたい』と言ったらどうしますか。私たちがやっている「原爆の図」展はそういうことなのです」という言葉をかけられたのである。この一言によって夫妻は加害者と被害者を一様に分けることはできず、被害者も加害者たりうるということを自覚させられるに至ったという。そしてその体験を赤裸々に告白することで、自らの加害性を自覚させられたという自責の念が公に表明されることはとても重要である。
 被害者の正しさ・強さは、振り回してしまうとそれ自体が他者を傷つける刃ともなりうる。人類全体のために正しいことをしていると信じていた夫妻に「加害者」側から突きつけられたこの一言は、絶対善・絶対悪などないということを夫妻に自覚させるに十分であった。《原爆の図 第十三部〈米兵捕虜の死〉》も、その体験を経て1971年の作である。
 この4点も、ウェブサイトや図録の画像ではその大きさはわからない。それぞれ《南京大虐殺の図》400×800(cm)、《アウシュビッツの図》340×1610(cm)、《水俣の図》270×1490(cm)、《水俣・原発・三里塚》400×800(cm)の巨大な作品である。
 岡村学芸員によれば、これらの作品はこの大きな展示空間ありきで制作された作品であるという。これだけ大きな作品に四方を囲まれる体験も、並の美術館ではなかなかできるものではない。「実際に来ないとわからない」という定型すぎる文句がこれほどまでに腑に落ちる美術館体験もなかなかないものである。


4.丸木スマの絵

スマ

丸木スマの絵 展示風景


 丸木美術館ウェブサイトの[常設展]の項には、「原爆の図」「共同制作」に加え、「丸木スマの絵」の項目がある。あまりにもインパクトの大きい前2者の影に隠れて存在感が薄くなりがちだが、こちらもとても味わい深い魅力を湛えている。
 丸木スマ(1875~1956)は位里の母である。長く家業の船宿や野良仕事をしながら子どもを育ててきたスマは、俊の勧めで70歳を超えてから絵を描くようになり、81歳で亡くなるまでのわずか10年ほどの間に700点を超える絵を描いた。
 丸木美術館には、スマの絵も数カ所に分けられる形で展示されている。スマの絵は、楽しそうに遊ぶ動物や子どもたち、人々が暮らす村の風景、色鮮やかな草花など身近なモチーフが、決まりに縛られないのびやかなタッチで描かれた微笑ましいものが多い。その穏やかで柔らかなタッチは、この美術館の強烈なインパクトを和らげるクッションのような優しさを湛えており、さながらグランマ・モーゼスのようである。とはいえスマも単に趣味程度に絵を描き続けたわけではなく、女流画家協会展に毎年出品し、1954年には日本航空賞を受賞、また1951年には日本美術院展に初入選、53年に院友に推挙されるまでになるなど、画壇での評価も獲得した立派な画家であった。


5. 場の力と企画展の力学


 丸木美術館を初めて訪れる者は、まず館の立つそのロケーションに感銘を受けるだろう。閑静な田舎道から少し外れて、穏やかな川沿いに建つ緑に囲まれたその立地は、1人で粛々と作品と対峙するにも、わいわいとイベントに集まるにも好ましい場所である。
 丸木夫妻は、美術館から見下ろす都幾川が、位里の故郷である広島の太田川の風景と似ていることから、この土地への移住と美術館の開館を決めたという。毎年8月6日の「ひろしま忌」には、参加者が平和への思いを込めて作った灯籠が流される。アクセスが難しく行きにくい館には、その行きにくさに意味があるものである。

川1

美術館近辺の都幾川沿い風景


 丸木美術館では以前から丸木夫妻と近しい作家らによる反戦や平和をテーマにした企画展が多く開催されていたが、10年ほど前から個展開催は初めてという若手・新人アーティストを中心とした企画展や、直接は戦争に関わりのない資料を展示する展覧会にも力を入れるようになった。今回の取材日には美術評論家・椹木野衣キュレーションによる写真家・砂守勝巳の個展が開催されていた。

企画1

砂守勝巳写真展 黙示する風景 展示風景


 丸木美術館で開催される企画展は、どうしても常設展示作品の強い力、そしてそれらのための展示空間であるこの場所と何らかの関係性が否応なく構築されてしまう。この美術館で開催する企画展やイベントが、《原爆の図》という強い力と無関係でいることは不可能であろう。
 しかし、企画展のテーマや内容を、必ずしも場の力・場の意味に結び付けなければならないという制約がないのであれば、場の力とまったく切り離した企画展を組み上げることも、積極的に目指されてよいのではないかと感じている。丸木美術館で企画展を開催するにあたり、必ずしも戦争や暴力、傷跡や瓦礫といった「痛み」や「記憶」をテーマに織り込む必要もないのではないかと、そのように感じた。強力な意味を持つ場であるからこそ、それを忘れさせるほど自らの自立性を確立できた企画展こそが、強さを持つのではないだろうか。


6. 《原爆の図》の評価と研究

 丸木位里は、日本画の歴史の中で異端的な扱いを受け、これまであまり研究や評価をされてこなかった。戦争画も、近年になってようやく美術史の文脈で語られるようになった。戦争画が批評や歴史学の言葉で語られるようになったのは2000年前後頃からであった。また、アメリカ政府から多数の戦争記録画を「無期限貸与」されている東京国立近代美術館が戦争記録画を多数展示するようになったのは、2012年に開催された開館60周年記念展「美術にぶるっ!ベストセレクション 日本近代美術の100年」展以降であったとされている。
 《原爆の図》はいわゆる戦争記録画とは別個のものだが、戦争の記憶と結びついた美術作品であることは間違いない。《原爆の図》も近年になってようやく研究が進むようになったばかりであり、これからの研究進展の中で丸木美術館が大きな役目を果たしていくことになるだろう。


トップ画像:原爆の図丸木美術館外観
写真提供:原爆の図丸木美術館

「レビューとレポート」 第16号 2020年9月