見須

いつかアルゼンチンに行ってみたい。

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  • スペイン回想記

    1か月間スペインに滞在したときのことを書きます。

最近の記事

スペインの画家メモ:ホアキン・ソローリャ

ソローリャ美術館のnoteではホアキン・ソローリャについて書ききれなかったのでここで彼についてもう少し詳しく調べたことを書いていきたい。 ホアキン・ソローリャは1863年にスペイン・バレンシアに生まれた。幼いころに当時流行していたコレラで両親を亡くし、鍵職人であった叔父夫婦に育てられる。ソローリャも鍵づくりを学んだが、叔父が彼の芸術的才能に気づくと、バレンシアの美術学校の夜間クラスで絵画を学ばせた。1881年(18歳)のときマドリードの展覧会に出品する。翌年マドリードにやっ

    • スペイン回想記6 パンプローナにて

      待ち合わせ場所のロータリーに行くとリクが立っていた。彼はナバラ大学の学生で授業の合間に迎えに来てくれた。旧市街から歩いて20分ほどのキャンパス内にある博物館に連れて行ってくれた。リクが"インターナショナルスチューデント"という言葉を駆使して博物館に無料で入れるように受付の女性に話してくれた。この"インターナショナルスチューデント"効果はすごくて、これでそのあと大学棟の中にも入れてもらえた。 最初の展示室にカタルーニャ州旗「セニェーラ」を描いた作品があった。赤い縞から血が垂れ

      • スペイン回想記5 パンプローナまで

        友人に会いに1泊2日でパンプローナを訪ねることにした。1泊2日しかないので朝一番のAVE(高速鉄道)の席をとった。たしか8時少し前の電車だったと思う。公園を抜ければアトーチャ駅まですぐだと思ってピソを出たけれど、真っ暗でとても通っていけそうにない。冬の日本の朝4時とか5時の暗さだった。それにそもそも朝は公園の門が閉まっていて入ることができなかった。 歩いていっては間に合わないし、どうしようかと考えた結果電動スクーターで向かうことにした。しかし真っ暗で通ったことない道だったの

        • 秘密主義者の沈黙

          食事会の帰りに友人と話しながら歩いていて大塚美術館の話になった。それでスーラのことを思い出してひさしぶりに部屋にあるスーラの画集を開いた。 その画集はアメリカの田舎でひと夏を過ごしたときに町の古本屋で偶然見つけて8ドルで買ったものだった。画集と言っても薄い。スーラは点描という時間のかかる手法で描いていたことに加え、31歳という若さでこの世を去ったため残された作品は多くない。スーラの作品は実物は太陽の光を感じる明るい画面だが、印刷物や画面では少々暗く写ってしまって残念だ。

        スペインの画家メモ:ホアキン・ソローリャ

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        • スペイン回想記
          6本

        記事

          スペイン回想記4 ソローリャ美術館

          ある夜、パブロの両親がピソに泊まりに来ていた。二人と、特にお母さんとたくさんおしゃべりした。美術館が好きでマドリードに滞在することにしたと話したら、 「ソローリャ美術館はいいところよ。バレンシアの海辺で、水着のなかったころだからドレスを着て水辺を楽しむ女の人や子供たちの絵がたくさんあるの。プラド美術館を見るには何年もかかるけれど、ソローリャ美術館ならどこか一日の午後だけで十分楽しめるわ。」 と、ソローリャ美術館に行くことをすすめてくれた。 ソローリャ美術館はチャンベリ(

          スペイン回想記4 ソローリャ美術館

          スペイン回想記3 オドネル通りとアトーチャ駅

          オドネル通りに出ると中国人留学生がたまっているところがみえた。それでそこが語学学校だとすぐにわかった。エレベーターで二階に上がり、大きな扉を開けて中に入ると背の高いグレーのセーターを着た女性が対応してくれた。 資格試験も授業も受けたことがなくて自分のレベルが分からないことをつたえると廊下の突き当りにあるパソコンで簡単なテストを受けることになった。その後スピーキングとリスニングのレベルをはかるために語学学校の先生と10分くらい話した。この先生も背が高い女性だった。ボブに赤いリ

          スペイン回想記3 オドネル通りとアトーチャ駅

          アルゼンチンに思いをはせて

          アルゼンチンの歌が好きだ。私のSpotifyのお気に入りプレイリストは Indie Argentina と This is Indios である。スペイン語学習のためにラテン音楽を聴き始めたけれど、その頃はラテン音楽がどうも好きになれなかった。レゲトンも性に合わなくてだんだんスペイン語の歌を聴くのが苦痛になってきていた。そんなときにアルゼンチンのポップス、インディー音楽に出会った。アルゼンチンの音楽は洗練されていて心地よく、いつまでも聴いていられた。アルゼンチンという地球の裏

          アルゼンチンに思いをはせて

          スペイン回想記2 チョコラテバロール

          翌朝パブロが家をでる。"¡Hasta luego!" (アスタルエゴ)と元気のいい声が聞こえて戸が閉まる。慌てて"'¡Hasta luego!"と叫ぶ。"Hasta luego." はまたねという意味でそれこそスペイン語学習をはじめてすぐに覚える言葉だけれど、人生ではじめてこの言葉を使った瞬間だった。本場の"Hasta luego"は「アスタルエゴ」というよりも「アッタルエゴ」に近い。挨拶だけでも発見があって面白い。「またね」とか「さよなら」よりも"See you later

          スペイン回想記2 チョコラテバロール

          スペイン回想記1 初日

          スペインに留学したいという夢が叶い、1か月ほどマドリードで生活した。独学でスペイン語を勉強し、スペイン語が自分の部屋の中だけの出来事だった私にとって、マドリード=バラハス空港に降り立ち、スペイン語に囲まれた瞬間の高揚感は言葉にできないほど特別なものだった。 電車に乗る勇気はまだ無くて、タクシーに乗った。スクショしておいた滞在先の住所をタクシー運転手に見せる。思っていた以上に空港からマドリード市内までの距離は短くて、15分ほどであっという間に到着した。到着する少し前から会計は

          スペイン回想記1 初日

          ときめく外国語

          スペイン語学習がひと段落つき、次の言語を探していた。スペインに滞在したときのルームメイト3人はエラスムスでミラノに留学していた時に出会ったそうでイタリア語が話せた。そのうち一人の恋人はイタリア人で毎晩イタリア語で電話している声を聴いていた。もう一人の男の子がシャワーを浴びるときのプレイリストにはイタリアのポップスが入っていた。女の子の両親はブエノスアイレス出身でイタリアの血も入っているらしかった。スペインにいるとイタリアを近くに感じた。通っていた語学学校にもイタリア人老夫婦が

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