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『荒野の避雷針』4話

【四】
 
 夏がちゃんと暑くて良かった、そんなことをぼんやりと考えながら、冷房の効いた室内で今週は端末機を叩いている。機械類はまるで弱い吟子だったが、同じ操作の繰り返しで二年目にもなれば、手作業よりも早く確実なオンラインシステムを使いこなすことにも慣れてきた。
 今朝、数枚の暑中見舞いをポストに入れた。年賀状以来音沙汰なしの、高校時代に多少仲良くしていた友人数名や、主に手紙だけで繋がっている遠方の文通友達、家は近いのに滅多と会わない美緒や葉月に宛てた絵入り葉書だ。それからヒロヤにも、いつになく丁寧な文字を意識して書いた夏の便りを送る。
 返事を期待しないでいられるこの葉書が、吟子は好きだった。
 この辺りの郵便局ではだいたい暑中見舞いの葉書は売り切れているらしい。冷房のよく効いた場所にいながらも、そんな情報を聞くと暑い夏を感じるのだった。
 
 八月に入って最初の金曜日の夜、「葉書ありがとう」という電話を受けた時は何かと思った。ヒロヤから。やっと車が入ったから、海にでも行かないかと思って──確かそんな話だった。
 けれど車の話なんて何も聞いていなかったし、第一ヒロヤが運転免許を持っていることさえ初めて知ったことだ。吟子は驚いて、しばらく言葉を出せなかった。ヒロヤが言うには、吟子を驚かせようと思ったのもあるが、車を譲ってくれるという人の話がはっきり決まらなかったこともあって、言うに言えなかったらしい。
 ともかく、急に誘って悪いけどと妙に謙虚なヒロヤの姿が目に浮かぶようで、安全運転を誓うならと吟子は了解した。
 知っていながら気付かないフリをしていたが、ヒロヤと二人でどこかへ出掛けるのは初めてのことだった。吟子は働いているので土日しか休みがないし、その日はいつもヒロヤたちがストリートライブをするので拘束されていた。唯一その場所を離れて一緒に歩いたのは、バンドのメンバーと四人で楽器屋をまわった時だけと記憶している。
 恋人同士を名乗りながらただ会っているだけのように思えることが確かにあって、それについては吟子自身、自分にする上手い言い訳を知らない。
 待ち合わせはロータリーのあるJRの駅前。吟子はヒロヤの車を知らないので、ヒロヤの方から見つけるからじっとしているようにと言われている。赤のMR2、とは聞いているが、実際それがスポーツカーであることしか吟子にはわからない。
 約束の時間より二十分も早く着いてしまったので、とりあえずバス停のベンチに腰掛ける。タクシー乗り場の前には、客待ちの空車が列をなしていた。朝早くから御苦労なことだ。
 
 時々、何故あの時頷いたのだろうと考えることがある。確かにヒロヤのギターと歌声、バンドの音楽性には強く惹かれたが、他に類を見ない程のことではなかった。しかしそれならばどうして、ヒロヤの恋人と呼ばれることを自分自身にあてがったのか。
 美緒のことをあんなに苦しく想いながらも、ふとした拍子にヒロヤを思い出す。ヒロヤといる時でも、気が付くと美緒のことを考えている──そんな時必ず訪れる罪悪感は、不思議と吟子を安心させた。
 大丈夫、まだあの人のことを好きでいる。
 愛されることは吟子にとって負担でしかない分、愛する気持ちには自信があった。最低条件、相手が自分になびきさえしなければ。
 ヒロヤといるのはとても心地がいい。声を聞くだけで愛しさに苦しく息が詰まるような美緒とは違って、力を抜いて自由に振る舞える。異性としての煩(わずら)わしさがないのもいい。たまに短パンで会っても「足、細いね」などと眺め回したりしないし、髪が風に乱されても「アタマぐちゃぐちゃじゃん」と笑ってくれる。決して「いい匂いだね」とか「シャンプー何使ってるの?」とは訊かない。
 命令しないしベタベタしない。そんなところが好きだ。余計な干渉はしないが、時々溢れ出すように長い話をすることもある。骨張った色白のギタリストの指。バラードを歌う時震える喉仏。エフェクターを大事そうに踏む爪先。好きなところを数え上げたらキリがないくらいだ。それでも決定的に吟子をヒロヤへ持って行ったものが何なのか、思い出せる範囲では見当たらない。
 
 パァアーン、という鋭い音に顔を上げると、少し離れたところに赤い車が寄せてあった。時計を見ると約束の時間の十分前だ。吟子は疑いもなく腰を上げ、それに近づいていく。ナンバープレートの少し上とリヤウィンドゥに、確かにMR2とロゴが貼ってある。運転席から出てきたヒロヤは軽く挨拶し、助手席側にまわってドアを開けた。
「ようこそ」
 多少照れ臭い気持ちでシートに滑り込み、ぐるりと車内を見回す。一見狭い感じを受けるが、姿勢を決めると意外にしっくりくる。エアコンがよく効いていて心地良く、気にならない程度に少し煙草の匂いがした。
「車酔いとか大丈夫?」
「人並みには平気」
「じゃあ大丈夫だ」
 嬉しそうに笑ってサイドブレーキを降ろす。車は柔らかく滑り出し、ステレオからは英語の歌詞が流れてきた。吟子の知らないアーティストだったが、テンポが小気味よくドライブという雰囲気に合い、ヒロヤは時々口ずさんでいる。窓の外の景色は飛ぶように流れ、すれ違う車がまるで矢のようだ。
 普段と少しも変わりなくヒロヤは口数少なく、音楽とエアコンで満たされた空間は真夏日とは別世界で、前を走る白い車から反射する光だけが嘘のように眩しかった。
「どこ行くのとか、聞かない?」
 信号待ちの最中に、ふとヒロヤが言う。外の景色の移り変わりを楽しんでいた吟子は不思議そうに首をかしげる。
「海、って聞いたから、信用してるよ」
 信用、と口にした時に奇妙な違和感があったが、すぐに信号が変わって気が逸(そ)れる。マニュアル車独特の繋ぎ感があって、小学生の頃はよく車酔いをしていたことを思い出す。遠足のバスで窓際の席に乗れない日など、ひどく絶望的になったものだ。結局は車内外で吐いたりすることもなく、無事にやり過ごしてこられたのだが。
「どこの海とか、気にならない?」
「着いてからのお楽しみだと思ってる」
「吟子」
「……どうかしたの」
 抑揚のない言葉では疑問形にならない。
 真っすぐ前を見て運転しているヒロヤを見る。海へ行くと言ったはずだが、外の景色はどちらかと言うと山側のように思える。自分を死体にして埋めてしまうつもりなのかなどと現実味のない想像が浮かび、まぁいっか、と思う無感情な自分に呆れた。
「何かあった?」
 決して相談に乗るふうには聞こえないように、できるだけそっけなく言う。実際そんな気持ちなどないし、弱みを見せないヒロヤだからこそ吟子は付き合っていられるのだ。
「ずっと……ごめんな」
 ドキリとした。何のことだかわからない、けれど一瞬ぞっとする。
「早くこうやって二人で出掛けたかった。車なんかなくたって、連れて行ってやりたいところが山ほどあるんだ」
 ちらりとヒロヤを盗み見る。相変わらず真っすぐ前を見ていて、運転は安全そのものだ。「まだ誰にも言ってないんだけどさ、俺、バンド辞めようと思ってる」
「──?!」
 ヒロヤの視線と同じように真っすぐ頭の中に入ってきた言葉に、吟子は思わず息を飲んだ。
 バンドヤメヨウトオモッテル──自分が運転している立場ならきっと、両手を離してしまっていただろう。
「ちゃんと就職するつもりなんだ。一日八時間労働で、週休二日制で、決まった給料ちゃんともらえるとこ」
 さっきから信号が一つもない。淡々と話しながら粛々と運転しているヒロヤが、何故かとても恐ろしいものに思えてくる。言っていることが半分も理解できない気がしてくる。
「もっとちゃんと吟子と付き合いたい。いつまでも自分の世界だけを守ってるガキじゃだめなんだ。外の世界に出て、本物の男にならなきゃいけないと思うから」
 何、ソレ、よくわからない。
 吟子はぞっとした。背中を流れる冷たい汗の感触が、ヒロヤの声が震わせる車内の空気が、車に酔ったようにぐるぐる回る頭の中が、この場にいたくないくらいの嫌悪感に変わる。
 その瞬間、みるみるうちにヒロヤは『男』になってしまった。吟子の中で煩わしいものとして定義付けられている、異性としての匂いを放ち始めたのだ。
 一時(いっとき)も早く、彼から離れたかった。電車で出掛けていたなら一人で帰れたのに。今走っているのがどこなのかさえわからない。近くの駅で落としてくれと頼んだところで、逃げ道にならないのはわかっていた。
 何か、言わなければ。
 バンド辞めるなんてもったいないよ、とか、就職できるアテはあるの、とか。それとも、もう帰りたい、二度と会いたくない、とか?
「……吟子」
「葛城」
 ヒロヤの言葉を遮るように、吟子は声を絞り出す。なるべく落ち着いて。
「じゃあバンドって一体何だったの。時間もお金もかけて、何年も続けてきたものはどうなるの? 私は、音楽の中にいる葛城が、好きだった」
 思わず過去形にしてしまったことと、「好き」という言葉を使ってしまったことに狼狽(うろた)えたが、言っていることに間違いはない。
 しばらくの沈黙。これ以上ヒロヤに話を続けてほしくなかった。もうすぐにでも、吟子の聞きたくない台詞が出てくることが予想できたから。
「……ごめん」
 五台程の対向車を見送ったくらいにようやく、つぶやくような声が聞こえる。盗み見たルームミラーにその表情は映らない。
「俺ってやっぱし考え方甘いなぁ」
 山道のカーブの傍らに、広く幅を取った仮眠スペースがある。ハンドルを緩く切ってヒロヤはそこに停車し、サイドブレーキを引く。俯いたままでいた吟子には日陰に入ったことしかわからなかったが、音楽とウィンドゥ越しにセミの鳴き声がかすかに聞こえていた。
「前に広野に言われたことがあったんだ。俺よか吟子の方が随分大人なんじゃないかってさ。あいつにだけは言われたくなかったけどなぁ、確かにその通りだ」
 そっとヒロヤの方を見ると、屈託なく笑っていた。吟子自身は決して大人なわけではなく、ただ冷めているだけだと思っている。大人というのは多分、他人の痛みがわかって、自分の痛みを押し殺してでもその場の空気を乱さずに笑えるということだ。今のヒロヤのように。
「嫌な思いさせてごめん。今日は吟子に、来てよかったって思ってもらえるように頑張ろうと決めてたのに、なんか考え過ぎてたかな」
 つま先から頭のてっぺんまで満ちていた嫌悪感が、引き潮のように薄れていくのがわかった。なんて都合のいい想い。一時はもう二度と会いたくないとさえ思えたのに。
「ちょっと、降りてみないか?」
 言いながらもうキィを抜いている。外はすっかり山の中の景色で、虫取りくらいしかすることがないような気がするのだが。
「あっつ……」
 ムン、と忘れかけていた真夏の空気が冷たくなった身体を襲う。同時に、久しく感じられなかった夏の匂いが嗅覚を刺激した。
「海の匂い!」
 勢いよくドアを閉め、思ったより熱くなった手をさする。
「御名答。約束通り、海に来たよ」
 ヒロヤに先導されて道なき道のようなところを降りていくと、急に視界が開けた。海だ。しかも想像していたような、人、ゴミ、車でうんざりするようなビーチではなく、あるがままの形で岩場の向こうに広がっている、裏側の海だ。
「うわぁ……」
 きれい、とか、すごい、とか、言葉はいくつも頭の中に溢れてきたけれど、どれも陳腐で口にすると安っぽくなりそうで言えなかった。ただしばらく凍りついたように立ち尽くし、初めて目にする世界に浸っていた。
「海だぁ……」
 クスリとヒロヤの吹き出す声がする。抗議の気持ちを込めて見返すと、更に声をあげて笑った。
 そうだ、こんなふうにヒロヤと過ごしてみたかった気がする。美緒といる時には決して訪れることのない、水に浮いているようなルーズな時間。追われることも縛られることもない、二人の時間。
「お気に召していただけましたでしょうか?」
 照れ笑いを浮かべてヒロヤは訊く。
「もう、すごく。こんなの初めて。感動的」
 この時ヒロヤの方を見なかったのは、純粋に目の前の景色に釘付けだったからだ。そっと一歩、ゆっくりとまた一歩、吟子は海に向かって歩いた。ところどころに潮溜まりができていて、小さなヤドカリや透明な小魚なども見つけられた。海にせり出した岩の上にはウミネコだかカモメだか知らない白い鳥が何十羽もいて、時折吹く強い風がむせ返る程の潮の香りを運んでくる。
「海! って感じがすごくするよね」
「そりゃ海だからさ」
「わかってるけど、海を感じさせる海なんだよ、これは」
 ヒロヤとそんなやりとりを交わしながら、例によってふと、美緒のことが心に浮かぶ。
「……」
 彼女なら、こんな風景を見て何と言うだろうか。
 もしも吟子がここへ連れてきてやれたなら、きっと岩場の端まで一目散に走って行って、サンダルを脱ぎ捨てて海に足を投げ出すのだろう。思ったより冷たく心地よい海水に浸りながら、喉が渇いただのお尻が痛いだのと騒ぎ出すに違いない。そしてそのわがままをひとつひとつ叶えてやりながら、吟子は少なからず幸せな思いで笑みを浮かべるのだ。
「……こんなとこ、どうやって見つけたの?」
 口唇の端に笑みがこぼれそうになって、慌てて吟子は言葉に代える。もう心の中は美緒で溢れてしまっていた。目の前には美しい風景とヒロヤの姿。
「高校ン時にバイクで来たことあったんだ。偶然連れの一人がここでトイレ使って、他の奴らはジュースとかタバコとか買ってたんだけど、俺だけたまたまこっち側うろうろしてたら降りられそうな道見つけてさ。そん時はそのまま行っちゃったんだけど、あとで一人で来てみたらすごいきれいなとこだろ? これは誰にも言えないなって」
 海の方を見つめながら、ゆっくりと高校時代を思い出すようにしてヒロヤは話す。
「でも実はそれ以来一度も来てなくて。一昨日ビビって下見に来ちゃったよ。三年も経ってたら道も忘れてるかも知れないし、ここが変わってたらどうしようかと思って」
 聞いていて、なんだかとてつもなく切ない気持ちになってきた。
 この人はこんなにも、自分のことが好きなのだ。どこがいいのだか知らないが、とても大事にしてくれる。
 吟子はふと、自分のヒロヤへの想いと、ヒロヤの自分への想いの大きさの違いを見たような気がした。ヒロヤ>吟子。しかしそれでは吟子の恋愛感情は成り立たない。
「ここは、三年前から変わってない?」
 三年経てば人は変わってしまうけれど。
「変わらないよ。まぁ多少ゴミが目につくけど、穴場みたいなとこだし、汚しちゃいけないって気持ちになるからな。泳げるような場所じゃないし、目で楽しめたらそれで十分だから」
 太陽の光が容赦なく照り付ける。時間や季節によって全く違った印象を与えるのであろう海は、蒼(あお)に碧(みどり)にとビー玉を覗くように色を変えながら揺らめいている。
「︱︱葛城ぃ」
 海を見つめたまま、ヒロヤの顔は見れない。
「バンド、もうちょっと続けなよ」
 今の吟子には、これだけ言うので精一杯だった。
 
 葉月の恋人が葉月と別れた時に言った言葉が、ずっと吟子の胸にも引っ掛かっていた。
 祝福される恋人同士──。
 結局のところ、吟子もそれを取ったのだ。当たり障りのない、当たり前の男女のカップル。手を繋いで歩こうが、街角でキスを交わそうが、初体験が十五歳の時であろうが、眉間にしわを寄せる大人はいても、本人たちに後ろめたいことは何もないだろう。これが私の恋人ですと、誇らしく紹介できるだろう。
 朱の言い分は痛い程よくわかった。そして葉月の哀しみも、息が詰まる程。
 もしも美緒が振り向いてくれるなら、間違いなく吟子はヒロヤと別れるだろう。たとえ祝福されなくても、幸せなことこの上ないはずだ。
 それはわかっているのに何故、ヒロヤが吟子を想っているのを知りながら、美緒への想いを断ち切れないのだろうか。違う角度で同じくらいと自分では思っていたが、ヒロヤのことよりもはるかに強く美緒のことを想っている自分を、今更のように感じた。
 吟子はただヒロヤを利用しているだけなのかも知れない。世間体と、自分をごまかすために。時間が経てばいつかは美緒よりもヒロヤに傾くだろうと、知らず期待しているのかも。
 本当は葉月のように、自分のあるがままに生きてみたいと思っていた。できることなら、自信と誇りを持って。
 そういうふうにできないのは、そういうふうにできないと思っているからだと知っている。決して諦めの気持ちではない。受け入れているだけだ。
 これが、吟子なのだ。
 
 海からの帰り道、無難そうな店でうどんを食べた。比較的早いと思っていたのにも係わらず、途中の国道で海水浴帰りらしき渋滞に巻き込まれたが、ヒロヤは始終穏やかでそれなりに会話もはずんだ。
 新しく知ったこともある。MR2という車はエンジンがボディの中央にあるミッドシップ方式で、バランスがよくコーナリングが安定しているということや、ヒロヤが初めてギターを弾いたのは小学五年生の頃だったこと、実は人前で歌うのが恥ずかしくて音楽の成績は小・中・高と並べて悪く、自分の歌しか歌えないのでカラオケは苦手なこと、自動二輪の免許を取りたての頃、倒れたバイクを起こす練習をしていて左肩を脱臼したこと、その他にもいろいろもろもろ。
 まるで知り合ったばかりのように、ヒロヤは今日(こんにち)に至るまでの自分を話した。時間は驚く程足早に流れ、吟子が始めに恐れていた言葉はどこにも出てこなかった。
 見知った景色の地元周辺に帰った頃、車内のデジタル時計は午後三時を示していた。車通りも人通りも多い。相変わらず渋滞は続いていて、歩いて車を追い越せるほどだ。片側三車線の道路の両脇には三つの百貨店が並び、若者の集まりそうなスポットも数々点在しているところだ。歩行者用の信号などあってないようなものなので、ある程度渋滞している方が安全なのではと吟子は思う。それをヒロヤに言うと、俺もそう思う、と返ってきた。
「自分が歩行者でも結構似たようなことやってると思うから、こういう道路はすごく怖い」
 自分もきっと他人のことを偉そうには言えまいと苦笑して、吟子は再び窓の外を見やる。「──!?」
 吟子は、声を、飲み込んだ。
 あれは、何?
 目の前のタクシーが思いついたように急停車して乗客を降ろしだしたので、車線変更もできずに渋い顔で少しきつめのブレーキをかけたヒロヤだが、もはやそんなことは吟子には関係なかった。
 百貨店から出てきた男女。隣の女性よりも十五センチ程背の高い、やけに手足の長い男が小柄な彼女の肩を覆うように抱いて、車の進行方向とは逆に歩いてくる。浅黒く日焼けした、笑うと白い歯がキラリと光りそうな、女好きしそうなモデル顔の男。その隣で恥ずかしそうな笑顔を浮かべているのは、たとえ二〇〇メートル離れた後ろ姿でも間違えたりしない、山瀬美緒(やませみお)その人だった。
 途端にガクガクと目に見えて身体が震えだす。それに気付いたヒロヤが心配そうに声をかけた。
「寒い?エアコン効きすぎてるかな。気分悪くない?」
 優しい言葉も優しくは響かない。ただ感じるのは押さえ切れない衝動、耳鳴りがする程の激情、持て余す動揺。
「大、丈夫」
「何かあった? 急に」
 何か、言わなければ。
 自分の最愛の人が、見知らぬ男に肩を抱かれて歩いていたので、どうしようもない嫉妬に駆られているという事実、それ以外に。
「……猫の、死体があったの。言いようのないくらい、ひどい、可哀想な、目に焼き付いて離れない」
 そんな吟子を見て、どれ程ひどいものか想像したらしく、ヒロヤも顔をしかめていた。
「何か飲む? 今なら止まれる」
「ううん、平気。なるべく、ここから離れたい」
「わかった」
 かと言って特別スピードを出せるわけでもなく、走行速度は変わらなかったが、そんなことはどうでもよかった。それよりも、たったそれだけの現実にこれ程までに打ちのめされている自分が情けなかった。いっそのこと、美緒がこちらに気付けばいいとも思ったが、愛する恋人と密着して歩いている人間が辺りを走る車の中まで気に留めるはずもなく、こちらから離れる前に歩き去ってしまった。
「……」
 目の前から消えたことで次第に震えはおさまったが、耳鳴りは続いていた。
「大丈夫?」
 震えがなくなったのを見て取って、ヒロヤがまた声をかける。吟子の耳にはエコーがかかって聞こえてくる。
「うん、もう平気。ごめん、急に」
 本当は、目に焼き付いて離れない。聞いたこともないあの男の声や、美緒の控えめな笑い声が頭の中に響いてくる。
 二人は本当に恋人同士なのか。ただのバイト先の先輩かも知れないし、キャッチセールスかナンパの可能性もなくはない。しかしなんとか自分を落ち着かせようと無理に考えれば考える程、否定できない事実が浮かび上がってくるのがわかった。
 あの身体の密着具合とはじけるような笑顔。あれが恋人同士でなく何なのか。
 すっかり無言になって俯いていた吟子は、やがてようやく渋滞を抜けたことにも気が付かなかった。ヒロヤもおそらく気遣っているのだろう。路肩に車を停め、ちょっとと言って戻ってきた手には、吟子の好きなメーカーの缶紅茶があった。
「さんきゅ」
 胸が痛むのを感じながら、吟子はそれを受け取った。ちょうど喉が渇いてきたところだ。「……落ち着いてきた?」
 シャツの袖あたりで額ににじんだ汗を押さえながら、ヒロヤも自分の分の缶を空ける。ぷしゅ、という音のあとに炭酸の騒ぐのが見える。
「うん。ひどいもの見ちゃった」
 何とか笑って見せようとしたが、それがちゃんと笑顔として映ったかはわからない。なんとかヒロヤの目を見て、平気そうな自分を演じてみる。
「思ったより早く帰ってこれたんだけど、家まで送っていこうか」
 思うに、本当はこのあとの行動も予定していたはずだ。普段行かないようなレストランの予約などもしてあるのかも知れない。吟子の思っているヒロヤの像が間違っていないなら、本来こんなところでこんなことは言わない。優しさなのか、臆病なだけか、いつもの彼女ならば心の中で判断を下すところだが、今日はただただありがたかった。ヒロヤがそこまで見抜いているかいないかはともかくとして。
「ありがとう、助かる」
 ヒロヤは頷いて少し笑った。

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