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『荒野の避雷針』2話

【二】
 
 ホワイトのスリムジーンズにオレンジのノースリーブシャツを着る。肩を少し越した髪は敢えて結いもせず、肩から下げるトートバッグに財布とハンドタオルとシステム手帳などを放り込む。いつも持ち歩いているポーチからブラウン系の淡い口紅を取り出して、毎朝仕事に出る時のように口唇に当てたが、鏡の中の自分と目が合ってやめた。
 土曜日の午前八時。カチリと音をたてて長針が垂直になるのを見届けてから、吟子は玄関に向かった。白のパンプスとで迷って、ナチュラルカラーのサンダルを下ろす。左手首にゴールドのチェーン、右手の中指と薬指には同じくゴールドと、誕生石のサファイアの指輪をしている。
 歩いても五分とかからない駅に向かう途中、すれ違ったのは犬の散歩中の老人だけ、追い越して行ったのは自転車に乗ったスーツ姿の男と車が二台だった。
 地下鉄に下りる階段は、吹き上げてくる生温かい風が絡み付くようだ。太陽の下では金茶色に透けて見える吟子の髪が、ただ気まぐれにかき乱されていく。それをかばうでもなく両手の親指だけをジーンズのポケットに突っ込み、サンダルをカラカラいわせて彼女は改札口に向かった。心なしか穏やかな表情が口唇の端に浮かんでいる。
 
 一度の乗り換えをしてホームに降りて、いつものように電車待ちのベンチに腰掛けた。遮断機が下りるのを知らせるサイレンが近くにきこえる。
 そうやって二本程無意味に電車を見送ってから、吟子は再び立ち上がり、改札を出た。
 流線形のオブジェを中央に置いた噴水の辺りは午後になるとたくさんの待ち合わせで賑わうが、さすがにこの時間ではその影もほとんど見えない。いつもはざわめきにかき消されてしまう水の音が、今朝は心地よく耳を撫でて流れていく。腕や髪に弾け飛んだ細かな水滴が、吟子をすがすがしい気持ちにさせた。
 改札から高架状になっている階段を下りると、グラウンドやミュージアムやコンサートホールのある広い公園に続く。その公園の最も駅寄りの一画が、吟子の気持ちの行き着く先だった。
 革のパンツをはいた長い髪の年齢不詳の男たち、鎖や安全ピンを各所にぶら下げて短い金髪を逆立てた少年たち、全身黒づくめで派手な化粧の女たちや、素っ頓狂でとにかく目立つだけの異様なファッションセンスの少女たち。一見別世界のような彼らとささやかな出店の合間をくぐって、吟子は自販機でコーラを買う。その場で缶を開け、二口飲んで大げさに「ぷはぁっ」と息を吐いた。
「吟ちゃん、ハヨー」
 もう一口飲んで歩き出そうとした途端、聞き慣れたアルトの男声が視界の外で呼びかけた。のんびりと振り返る。ベリーショートの髪をさらにムースで立て、板前が手ぬぐいを巻く要領で黄色のバンダナをした長身の男だ。程よく筋肉のついた身体に真っ赤なタンクトップがよく似合っている。
「──安藤(あんどう)さん」
 オハヨウゴザイマス、と小さく会釈すると、安藤と呼ばれた男はニカッと笑って歩み寄ってきた。
「いっつも朝早くからゴクローサンだねぇ。オニーサンが何か食べさせてあげよっか。どうせまだ誰も来やしねーし」
「今日は安藤さんが場所取りですか?」
「さよう。一番家の遠い俺がだぜ? 奴らもひでぇよな。吟ちゃんだってこんなに早くに来てくれてるってのに」
 公園の中の小さな花壇の縁(ふち)に腰掛けると、ちょっと待ってな、と言って彼は一番近くにあった出店でできたてのタコ焼きを買ってきた。何か食べさせて……と言うよりは、自分が何か食べたかったのだろう。もちろん吟子にも別に一人前買ってきてくれたので、普段朝食を摂る習慣のない彼女だったが、朝の公園の雰囲気も手伝ってか美味しく食べた。
 半時間程安藤さんと話している間にまばらだった人影もだんだんと増え、あちこちから不協和音が響いてき始めた。
「さ、と。行こっか吟ちゃん。いい加減連中も来てもいい頃だし」
 家を出た時よりも太陽が高くなっているのがわかった。額が少し汗ばんでいる。見えもしない紫外線から逃れるためだけに塗ったファンデーション。人気急上昇中の同い年の女優がCMしている。無造作に手の甲で額をこすりそうになって、慌ててバッグからハンドタオルを取り出して押さえた。
「ちぃっす、お吟ちゃーん」
 安藤さんとはまた違った感じの、キィの高い声が陽気に現れた。黒いボディを蛍光色で賑やかにペイントされた、過保護が目に見えるような四弦楽器を両手で抱えている。
「おはようございます、広野(ひろの)さん。なんだか今日はよく寝たって感じですね」
 冗談ぽく吟子が言うと、彼、守山広野(もりやまひろの)は機嫌よく笑って親指を立てた。
「ピンポンピンポーン! ドーチャンが場所取りしてくれたおかげで俺、八時間も寝れちゃったぜ。もー、気分爽快っ」
 本当に気分が良さそうだから、不思議とこちらも微笑んでしまう。普通に話していても早口でまくし立てるような感があり、遠慮のないストレートな物言いと、こうと決めたら意地でも信念を曲げない頑固さで、初対面の人間には敬遠されがちな広野だが、本当に心を開いて長く付き合っていくならこういうタイプだろうと、吟子は初対面の時に思っていた。そんな吟子を『初対面から広野に気圧されないツワモノ』と彼らが言っていたとは、後で聞いた話だ。
 俺が削った睡眠時間を、とか、目に見えないところで感謝してるよ、とかいう二人の会話を聴覚のほんの一部で心地よく聞き流しながら、吟子はわざと無愛想な声で目の前のルックスのいいバンドマンに歩み寄った。
「よぉ」
「オハヨー。今朝は御機嫌ナナメ?」
 そんなこと少しも思っていないくせに、ギターを抱えたヴォーカリストはからかうように上目使いをする。吟子はふっと口唇の端に笑みを浮かべて、御機嫌まっすぐだよ、と言った。
「今日こそ新曲披露ですかね? それともまだ卵?」
「おかげさまで無事産まれました」
 へえ、と吟子は茶化す姿勢をやめて感嘆の声をあげる。
「葛城の曲?」
「いや」
「作曲は俺だよーん。ベースソロをたくさん入れてみましたーっ」
 突然広野が会話に参加する。時々吟子のわからない専門用語を交えてどのフレーズのどこがいい、というようなことを説明した後、陽気にベースをかき鳴らす。ひとつとはいえ、まるで年上とは思えない落ち着きのなさだ。
 安藤さんが苦笑して広野を指差すので、吟子も少し陽気な気分になってくる。いつもながら居心地のいい連中だ。自分が部外者であり、しかも今日顔を合わせたのがまだ四度目であることなんてすっかり忘れてしまえる。
「作詞は今回、ヒロヤと俺なんだ」
「安藤さんも? 共作って初めてじゃないですか?」
「まぁね。俺自身、詞に関わるのがお初なのよ。へんなもんができたわ」
「デキの悪い息子程かわいいって言うじゃん。まぁ楽しみにしててよ。安藤さんって意外と詞のセンスいーの」
 言って、バンドのギタリストでヴォーカリスト、そして一カ月程前からは吟子の恋人でもあるヒロヤ──葛城裕也(かつらぎひろや)は、真っ白なTシャツの袖をぐるぐるとまくり上げながら、空いている手で額の汗を拭った。
「意外は余計だっての」
「そいつは失礼」
 額に軽いゲンコツを受けて肩をすくめながらヒロヤは、よく聴いてな、と吟子に笑った。
 音楽は好きだ。専門的なことはよくわからないが、耳に心地良い声や気持ちのいい旋律は、幾度となく吟子の萎えかけた心に優しく語りかけた。それは時に流行歌であり、ミュージカルの挿入曲であり、一カ月前に初めて聴いたヒロヤのギターと歌声であった。
 本当に胸に痛みが走るような、叶わないことを承知の恋をしながら︱︱そして今も。
 ヒロヤの隣で安堵していながら、静かな嵐を抱えている自分を知っている。ヒロヤの音楽がいつも流れていながら、吟子は違う歌を歌っている。
 
 知らないうちに、ちらほらだった歩行者がギャラリーだとわかる人数になっていた。
 乱れ打ちのようだった安藤さんの叩くリズムがだんだん規則的に、確かな音になっていく。好き勝手に弾いていたはずの広野のベースが、いつの間にか何げない顔でしっくりと重なる。ヒロヤの手の中のマイクがピックに持ち代わる。彼らを取り囲むように、ほとんどが女の子のギャラリーが、さあ、と息を呑んだ。
 ヒロヤの声。ベース。女の子の歓声。シンバルとギター。広野の声。飛び散る汗。太鼓。反射する光。
 まるでブラウン管の向こうのもののように、吟子は違う世界からそれを見ているような気持ちだった。
 音楽の中にいる時のヒロヤは、広野は、安藤さんは、とても手が届かない存在のように思える。知っているのに、遠く感じる。
 ヒロヤの声。手拍子。エコー。歓声。
 二曲続けての演奏が終わると、ヒロヤが短くバンド名を名乗り、次に演奏するのが新曲であることを告げた。失敗しても誰にも気付かれないから安心だと、広野が軽いジョークを飛ばす。
 低くてテクニカルな広野のベースから始まったその曲は、ブラウン管の向こうの世界が不意にこちら側に現れたかのように突然意味を持ち、吟子の意識を奪った。
 何故だかはわからない。情熱的なバラードでも、衝撃的なハードロックでもないのに。
 吟子がずっと心の奥深くに隠し持っていたひどい痛みを、小さく震えさせた。
 
 初めて会った時、葉月はこう言った。
「あなたって、男との付き合い方も知らなさそうで好きよ」
 その時吟子は、自分が男と付き合ったこともないようなオクテに見えて、葉月はそれを小バカにしつつ気にかけてくれる、遊び慣れた気のいい少女なのだと思っていた。何しろ中学一年の春である。男と女どころか、吟子にとっては人と人との付き合い方でさえ、正しく理解できていなかった頃だったのだ。
 その言葉の本当の意味を知ったのは、葉月との付き合いも一年になろうかという頃だった。昔話にふけっていて不意に思い出し、あの頃は男との付き合い方も知らなそうで悪かったわね、と皮肉を込めて言った時、違う意味にとったわね、と大袈裟に笑われた。
「媚びるとか喜ばせようとか好かれようとか、そんなこと全然しようとしないで、男がいても平気で自分の世界にいそうなタイプだと思ったのよ」
 それから二ケ月程後に、吟子は一年の頃のクラスメイトに告白されて自然と付き合う形になったのだが、葉月の言葉を忘れていたにも係わらず、それは早々に終焉を迎えた。
 その時も葉月は得意げに言ったものだ。
「私って、見る目あるでしょ」
 そんなに見る目のある葉月なら、何故自分にとっておきのパートナーを探さないのかと思ったこともある。大きなお世話だろうが、異性の話題が半分以上を占めていた中学時代に恋愛めいた感情のひとつもなく過ごすのは、どんなにかつまらないことだろう。
 事実、片想いの話題で集まる女子の輪の中で、今は別に好きな人はいないけど、と言った子が話題から明らかに外されているのを見て、吟子はとっさにクラスで適度に人気のある男子の名前を言ったこともあった程だ。
 しかし吟子と葉月の間では相変わらず恋愛話は持ち上がらず、お互いの好きな本や一緒に見た映画、演劇や友人の話をした。
 そんな葉月が高校進学の季節に一度だけ強く言ったことがある。
「私のやり方で、堂々と恋をするわ」
 晴れ晴れとした明るい笑顔だった。学力レベルはあまり高くない、私立の女子校が葉月の進学先だったが、何故か吟子にはわかった。通学途中や学園祭などでよその学校の恋人をつくるのではなくて、自分の通う高校の中で愛すべきパートナーを見つけるのであろうということが。
 
「お疲れさま」
 六曲全部を終えて、ギャラリーの波も一通り去った後、花壇の柵に腰掛けていた吟子は立ち上がって声をかける。
「どうだった? 俺のベース、新曲良かった? さっきファンの子にタオルもらっちゃった。『汗拭いてください』だって、高校生」
「やーい、ロリコン」
「違ーうっ! 二つ三つしか変わんないでしょっ」
「じゃあ制服フェチ?」
 額にもシャツにも汗をにじませて、広野と安藤さんは相変わらずのじゃれあいを見せる。吟子も笑いながら、安藤さんとヒロヤに白いタオルを渡す。
「さんきゅ」
 広野から預かった、本人曰く「激レア」のダイバーズウォッチに目をやると、デジタルは一一:〇〇を表示しながらピピッと鳴いた。
「吟子、腹減らない?」
 タオルをねじって首にかけながら、電子音に反応したようにヒロヤが問いかけた。そう言えば朝はあのタコ焼きだけだったことを思い出す。
「葛城が食べるなら付き合う程度には空(す)いてる」
 するとヒロヤは苦笑して、じっとしていない広野と眠い目の安藤さんに呼びかけ、近くのファミリーレストランで少し早めの昼食をとることになった。
「ドーチャンすっげえ眠そう。昼からダイジョーブ?」
「おめーとは違うよ。おにーさんオトナだから」
「へえへえ、おっそれいりましたっ」
 運ばれてくるメニューにそれぞれらしさを感じて、吟子は内心笑ってしまいそうだった。ヒロヤは入り口のノボリだけを見て日替わりランチ、広野はエビフライとチキンソテーとハンバーグにスープまで付いたグルメセット、安藤さんは和風ハンバーグセットときのこスパゲティだ。吟子は照り焼きチキンと竜田揚げとで迷い、結局今フォークに巻き付けているのはたらこスパゲティである。
「お吟ちゃん、昼からどーすんの?」
 言ってエビフライのしっぽをかじる広野。溺愛しているベースはケースに入れたまま、片時も離さない。
「え……あ、友達と待ち合わせしてるから」
 言いながら、「してるから」どうなんだと自分につっかかる。そんなくだらない嘘をつかなくても、誰も誘いも引き止めもしないのに。
「いーなぁ、買い物?」
「うん」
 嘘に重ねる嘘。
「俺も服買いに行きたいなーぁ」
 心底羨ましそうに、広野はグラスの底のほんの少しのジンジャーエールをストローでズズズと空にする。吟子など足元にも及ばない程センスがよくておしゃれ好きなのだ。
「何時にどこ待ち合わせ?」
 流れに沿って広野がきく。きっと、意味などないのだろうけれど。
 けれど吟子は少し罪悪感を覚えた。何故だかわからない。何に対してなのかも。ただ、本当に友達を誘って買い物に行こうかと思えただけだ。
「あ、まだ平気。私付き合うだけだし」
 答えになっていない、変な言い訳だ。つくづく自分の不器用さがおかしい。誰もこの嘘に気付かないのだろうか。気付いても言わないだけだろうか。そんなことどうでもいいのかも知れない。
 フォークのたてる不愉快な音を気にしながら、小さなたらこのツブツブを寄せ集める。ヒロヤと安藤さんが午後の演奏について話している。
 吟子の分の会計は、いつものようにヒロヤが持った。開けようとした財布をヒロヤが目で笑いながら黙って押し返す時、自分を恋人だと思い出してくれたようで、吟子はとても穏やかな気持ちになる。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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