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『愛は薬』の、愛の部分

突発的に文章を書いている。
久しぶりに曲を聞いてグワァァァッとなったので、その感想やら考察やらを残そうと思う。

***

Amazonプライムで『薬屋のひとりごと』というアニメを観ていた。

Amazonプライムでは、殆どのアニメやドラマなどのOPがボタンひとつで飛ばせて、特に何も操作しなければEDも勝手に飛ばされて次の話に進むようになっている。

OPは一緒に観ている母が大体飛ばしてしまうのでちゃんと聞けてない。

しかしEDの時は特に操作せずとも次に行ってくれる事が分かっているので、そのままにしている。

そうすると、EDの冒頭の数秒が聴けて、数秒の映像が見れる。

アニメはだいぶ見進めると、中盤の話からOP曲やED曲が変わるものが殆どである。
件のアニメも例外ではなく、大体1クールの半分位話が進んだかなと思ったらちょうど、曲が変わっていた。

「あぁ話がいい所で終わっちゃった!!早く次観よう!!」となっていた所で、綺麗なピアノの伴奏が入った。

そして、流れる様にバンドの方の綺麗なボーカルが流れて、『薬屋のひとりごと』なのメインキャラである壬氏様が上裸でなんだか物憂げに映ったではないか!!!!!

なんとも邪な気持ちが沸き起こってしまい、Amazonプライムの勝手に次に進む機能を妨げてEDを見続けることにした。

下心ありまくりな気持ちで見始めたのもつかの間、すぐに落ち着いていて切ないような曲調と綺麗な映像に虜になってしまった。

そして何より歌詞が良かった。
たった1分〜2分あるかないかの尺しかなくてフルで聞けないのが惜しいくらい良い曲だった。

wacciというバンドの、『愛は薬』という曲だった。

すぐにYouTubeでフルを聞いて、バンドのチャンネルでMVを観た。

ほぁ〜〜〜〜!!!!!!
良!!!!!!!!!!!!!!!
歌詞も曲も映像も何もかもが綺麗じゃ!!!!!!!!!!!!!!!!!!


最近のバンドのMVは綺麗で情緒的な映像が多くて、技術の進歩とつくり手の方々の情熱に感謝が溢れるばかりである。

最初はフル画面で映像と曲を楽しみ、
2回目は大量のコメントをスクロールしながら聞いた。

色々な経緯で、この曲を知った人がいるだろう。
私のようにアニメから来たという人や、元からwacciのファンらしい人もいた。このバンドの曲は素晴らしいと賞賛する外国人もいた。

沢山のコメントを書き込んだ人が、この曲を聞いて、好きになって、リピしているのだろうと想像して、心があったかくなった。

3回目はもう一度曲だけに集中して聴いて、4度目はなんとなくコメントを流し見たり、概要欄を読んだりしながら曲を聞いた。

ふと、あるコメントが目に止まった。

まるっとこちらに引用して書いてもいいものか分からないので、似たような感じの文章を書かせていただく。

「このコメントを読んでいる人が経験していること、苦労していること、心配していることが上手くいって、良い一日を過ごせる事を願っています」

(本物の素敵なコメントは是非YouTubeのコメントから探して読んでいただきたいです)

こんな言葉がすっと出てきて、身近な人に、または街中で出会う見知らぬ誰かに、そんなささやかな無償の愛が注げる人でありたいと思った。

家族がご飯を作ってくれて、一緒に食べるのも愛、友達と出かけて誕生日プレゼントをあげるのも愛、ただただ他愛もない話を延々とするのも愛かもしれない。

レジで会計した時に店員と客がお互いに(例え反射的な形式的なものであったとしても)礼を伝えるのも愛で、朝早くから立って、横断歩道を渡る小学生達に挨拶をするおじちゃんやおばちゃん達のその優しさも愛だろう。

誹謗中傷や、パッと目立つ、独りよがりで極端な意見がどうしても目に留まりやすいSNSでも、絶対に愛というものは存在しているはずだ。

バンドが新曲を出したら、「楽しみにしてました!」「今回の曲もめちゃくちゃ良いです!」のいいねを押して、それを誰かに知ってもらって一緒に分かち合いたくて拡散する。

好きな絵師さんがイラストやマンガを投稿したら「あなたの表現するこのキャラが大好きです」といいねを押して、更に絵師さんが健やかに創作活動を続けてもらうために応援のコメントを残す。

それらも愛に違いない。
送り先が人気な著名人であるほど四方から送られる沢山の愛が向こうにダイレクトに届く確率は下がってしまうが、それでも愛である事に変わりは無い。

もちろん愛の大きさも千差万別、大きくて重量のあるものもあれば、道端に咲いた小さな花に向けるようなレベルの些細なものもある。

それでも、全て愛だ。

そこに順位もなくて、どれが優れているとか劣っているとかレッテルをはられることもない。(はず。)

そしてあの愛もこの愛もその愛も、すべて、誰かの元に届けられて、その人の内に優しく染み入ってくれたらいいなと思う。

口に含んだらほっとするふんわりしただし巻き玉子みたいな、体調が悪い時にだけ作ってもらえたり買ってもらえたりする雑炊みたいなプリンみたいな。
病院で貰う薬剤みたいな数字で証明された効き目は保証できないけど、確かに何かの力があるのが愛である。

スピリチュアルだと笑われても良い。
身体の病気にも心の苦しみにも、何故か分からないけどあるのと無いのとでは何かが変わる。全てに効いてくれる。

そんな万能薬が愛なのだ。


p.s.
何だか「愛とはなんぞや」みたいな哲学的な文章になってしまった。ただただ『愛は薬』という素敵曲があるという話がしたかっただけなのに。

最後に私の好きな『愛は薬』の歌詞と、好きなポイントを書いて締めさせて頂く。
そしてこのエッセイをここまで読んでくださった方がいたら、ぜひ、YouTubeでもアニメでもその他音楽アプリでもいいので『愛は薬』を聞いてくれたらと思う。

日々の中で後回しにしてた寂しさが炙られてく

日々忙しくやることに追われてばかりいると、確かに感じているはずの「疲れたなぁ」というぐったりした気持ちや、やりたい事への情熱、些細な幸せやほっこりポイント、辛さや寂しさを考える余裕がどうしてもなくなってしまうという事がよくあるのでは無いだろうか。

それでも日々は変わらず過ぎていくので、どれだけ心の中で「寂しさ」を感じていたとしても、昔は大切にできていたものがおざなりになっていく。

なぜなら自分の中でくすぶっているその「寂しさ」よりも社会的または自主的に強いられる事や求められる事が増えていくから。任せられた仕事や責任、タスクをこなしていたら、そのような「寂しさ」を処理するエネルギーはなくなってしまう。
そして解消されることなくどんどん溜まっていくのだ。

加えて「炙られてく」という表現も、一見すると強火で一気に燃やされるような激しさは無いけれど、確かに「炙られている=炙られている」という小さいダメージが蓄積されている感がたった5文字で表現されていて「ッカァーーー!!!!コレコレェ!!!」と堪らない気持ちになった。

ほら
愛は薬 泣いて 泣きじゃくった頬に
刻む笑い皺 雨は上がって
愛は薬 濡れて やせ細った夢に
注がれるエール 伝うぬくもり
いつかひとりごとじゃなく ありがとうを言えるまで

サビまるごと。

泣いて泣いて泣きすぎると、幾筋もこぼれ落ちた涙の筋が、時間が経ってカピカピになっている。
ヨダレが、朝起きたらカピカピして付いているみたいな感じである。

そして笑いえくぼというものがある。
ニッて笑ったら、口角の少し外側(という表現で当たっているのだろうか…)にできるくぼみが、笑いえくぼ。

中には頬の辺りに皺のように線が入るえくぼというものもあるらしい。
泣きまくった後の涙のあとが、その笑いえくぼと重なったらどうだろうかという想像をした。

泣くほど辛い事が会ったあとは、笑いすぎて皺やえくぼができるくらい、楽しい事があって欲しいと願っている。

では、「やせ細った夢」とは、どういう事だろうか。
曲の冒頭で、「日々の中で後回しにしてた」ものの中に夢が含まれていたのか。

夢は、気力や体力が有り余っている時こそより鮮明に見えるものだと私は思う。
何故なら病んでいたら全てが暗く見えて、ベッドで横になるだけで今日という日を生きながらえるだけで精一杯だからである。
逆に体力だけがあっても、好きなものを追究するとか息抜きする時間が取れないと自分を大切に出来ているとは言い難い。

もしかしたら、昔は確かに心に据えて大切に育ててきた夢というものは、時を経て大人になっていくにつれて、気力も体力もなくなって養分を与えられなくなり、かと言って日光に当ててもらえることもなく萎れているのでは無いだろうか。
だから、「やせ細った夢」。

または、その前のフレーズをあわせて、「濡れてやせ細った夢」。

少し話がそれるが、うちでは犬と猫を1匹ずつ飼っている。

猫は元野良猫である。私がコロナ禍に自室で高校のzoom授業を受けている間に、散歩に行った母と犬がか細い声で鳴きながら今にも空に帰ってしまいそうだったのを拾ってきた猫だ。

犬はポメラニアンで、昔からずっと飼いたいと思っていた犬種をペットショップでお迎えした。
色は黒で、平均的なポメよりも大きい。そして鼻が高いせいで時折熊や狐、たぬきに見えるが、れっきとした可愛いポメである。

そのポメが、濡れたらガリガリになってしまうのである。
毛がもふぁもふぁしているので当然普段は実際のサイズの1.5倍位大きく見えるというわけだ。

普段認識しているサイズは、結構大きいのに、風呂に入れるなどして濡れてしまうと毛が水を吸ってぺちゃんこになるので、本当の体格通り小さくなる。

……「濡れてやせ細った夢」とは、そういう事なのか?

本来は割とサイズのあった夢が、挫折や絶望に揉まれていくうちに涙で濡れてしまってサイズダウンする。

涙が乾く前にまた涙を流しては、ずっとジメッと湿ったままになってしまう。

つまり夢はサイズダウンしたまま、やせ細った状態が続くのだ。

しかしそんな萎んだ夢も、いつかは陽の光を浴びる事が出来るはずだ。

ここでいう陽の光とは、文字通り自然に癒されるということかもしれないし、または人からもらった優しさや愛かもしれない。
「ずっと頑張ってきて偉いねぇ」「ちょっと休んで、また元気が出てきたらやってみようか」といった言葉かもしれない。

そのあたたかな何かが、涙で濡れてやせ細った夢を、洗われたお布団が日光とそよ風でじんわり乾かされていくように、また元のもふぁもふぁした夢に戻してくれるに違いない。

すっかり元気をなくしてしまった夢から涙を晴らすのが、人の優しさや愛に満ち溢れた「注がれるエール」と、「伝うぬくもり」。

そうしてすっかり涙はカピカピになって、気づけばもふぁもふぁなお布団のように、お日様の匂いがするふかふかな夢になるのだ。

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